女の瞳

 クロックスに白のTシャツで、その間に伸びる足は細いな、というよりも不健康に痩せているなという印象が強くありました。筋肉も脂肪もありません。若いのでシワはありませんが、骨張った膝がなんとも見るものを不安にさせる具合でした。

 手に持っていたのが酒なのかジュースなのかはわかりません。どうでもいいことかもしれません。酔っ払っていようがいまいが普段から気力なくふらふらと歩いているんだろうなと言うような、覇気のない顔をしておりましたから。

 なんら魅力などない女でした。女の命だと言われるような髪だって、別段美しくもありません。都会によく見かける染め重ねた果てに荒れすぎたあの金髪たちよりは纏まった、けれども手入れの足りない黒髪です。それを肩甲骨あたりまで伸ばしていました。そしてその、カーテンのように顔全部を覆った髪を。坂道を登りながら時たまかきあげるのです。それの時に一緒にもちあげる、まっちろい顔を私はいつも楽しみにしておりました。隠れたり出てきたり気分の浮き沈み激しい、いつまでも気分屋な私ですが、この時ばかりは必ずそれの真上に出ていって、しっかりと女の顔を照らしたものです。

 正直に言いまして、私にとって特別な女だったのです。覇気も魅力もない素朴な女ですが、髪をかきあげるその時だけみることのできる女の瞳が、まるで知らない一つの天体のように美しかったからです。どこよりも近くに、初めて出会った天体、唯一無二の美しい星がその目にはおりました。いや、海に映る私などただの私の写しでしかありません。生まれた時から在る地球など、もうとうの昔に見飽きてしまっていたのです。あの時世界で一番美しいのは、私が照らす女の瞳でありました。

私が見つめている時、女はどうだったのかと時々考えておりました。街灯なんか無い田舎の坂道ですから、私のことが女からもようくみることができたでしょう。眼鏡をしていなかったから、もしかしたら海や地球衝なんかも見えていたのかもしれません。ですがきっと、あの女はそんなところまでマジマジと観察することなどなかったのではと思います。いつでもその目は八分と空ききらず、ぼんやりと視界に在る私を認めるくらいでした。それでまたすぐに下を向いておりましたから。

 そんな女を、坂道を歩いているのを見つけてはいつもいつも照らしておりました。

 女は、その日もいつもと変わらずふらふらと坂を上がっておりました。もう顔は白よりも青に近く、これまた変わらず不健康な体つきをワンピースのように大きなシャツから覗かせておりました。髪を上げるのを待ちながら、私は真上から見つめていたのです。すると、女はまるで突如として私が現れていたかのように、きょとんと見つめてきたのです。探し物を見つけたというよりは、逃げてきたものに見つけられてしまったというような顔をしておりました。しかしその瞳は、いつもの8分も開ききらない虚ろなものではなく、まんまるになった、これまでよりも美しい完全な天体でした。キラキラと輝くその翡翠に見惚れて、私はとにかくその光を感じたいと目一杯に女の瞳を照らして見せました。いつも以上に照り返してくる天体に対して、まるで意中の君にやっと振り向いてもらえたかのような喜びを感じておりました。長い片思いを経て、私はようやく結ばれるような感動に浸ろうとしていたのです。そうやって美しい瞳をいつまでも見ていたいと思っていたのですが、そのうち瞬き一つしなかった女がウルウルと瞳を揺らがせ始め、長いことそのままだったもののやがて溢れるほどに涙を流し出しました。

 それで私は、その昔海に写った私が美しい別の天体ではなく、ただの私なのだと気付かされてしまった時の虚しさを思い起こされてしまったのです。なんとか涙を堪えてくれまいかと女に願いました。はっきりと開いたその美しい瞳を私に照らさせてくれと願ったのです。女はその願いが届いたのか、一度顔を覆って柵の方へと駆け寄った後、涙を拭って私の方へまた目をやってくれました。

 今度は揺らぐことのない、涙を流す前の美しい瞳であったのです。まるで何かを訴えかけるような真っ直ぐな瞳でありました。いやもしかしたら本当に、私に何かを訴えていたのかもしれません。そしてきっと、真っ直ぐな瞳とは何かを決意した瞳だったのです。じっと私へその美しい瞳を預けてくれた後、女は柵を乗り越えて奈落へ落ちていってしまいました。

あの時、涙を拭い私の願いを叶えてくれた女の訴えを聞いてやることは出来ませんでした。海に漂う私の写し身を見かけると、あれは一体なんだったのかと、時々それを思い出すのです。

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