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アンネの日記

6月12日、15年の生涯を戦争と迫害に翻弄されながらも駆け巡った少女の誕生日です。その名はアンネ・フランク。ユダヤ人として生まれ育った少女が隠れながら日々を綴った『アンネの日記』は戦争文学として多くの世代や国に読まれ、戦争の悲惨と理不尽な差別を伝えています。アンネの友人が生き残って移り住んだイスラエルとパレスチナの惨状をアンネ・フランクはどう思うのでしょうか。


アンネ・フランク

アンネ・フランクは1929年6月12日、ユダヤ人実業家オットー・フランクとエーディト・フランクの次女としてフランクフルト・アム・マインで生まれました。

しかしドイツでの生活は不可能でした。ナチス・ドイツの台頭でユダヤ人迫害が益々激化しアンネ一家はオランダへ亡命、アムステルダムの母方祖母・ローザ・ホレンダーの家に住みます。アンネは地元のモンテッソーリ・スクール(現・モンテッソーリ・スクール・アンネ・フランク)に通い、多くの友達に恵まれます。

しかし穏やかな生活は長く続きませんでした。オランダにも魔の手が迫りました。時の君主ヴィルヘルミナ女王が亡命しオランダでのユダヤ人の活動が厳しく制限され、「ダヴィデの星」を付けることを強制されます。

やがて祖母が亡くなり生活が厳しくなった1942年のある日、マルゴーにナチスからの出頭命令が来てアンネ一家はオットーが経営する会社の建物に隠れ住みます。それが後の「アンネの隠れ家」です。「隠れ家」には父の知り合いのファン・ペルス一家、歯科医フリッツ・プフェファーが合流、オットーの同僚たちの支援で潜伏生活が始まりす。

アンネは父から誕生日プレゼントとしていただいた日記帳に「キティ」と名付け、日々の暮らしや出来事を綴り、隠れ家生活で話が豊富になります。思春期の少女らしい気持ちから家族の葛藤に至るまで書き続けました。アンネはジャーナリストになるのが夢で戦争が終わったらその日記を発表することを考えていました。アンネは日記の他、小説等の作品も執筆していました。

だがその生活は終わりを迎えることになります。

1944年8月4日、アンネ一家とファン・ペルス一家、プフェファー歯科医はゲシュタポ(秘密警察)に逮捕され連行されました。

アンネ達はヴェステルボルク通過収容所に入れられ、やがて悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所に入れられます。

アウシュヴィッツ強制収容所はユダヤ人の他、政治犯、同性愛者らナチスから「不適格者」とされた人々が収容され、ガス室で殺害されました。その中にポーランド人のカトリック司祭マクシミリアン・マリア・コルベやアンネと同じユダヤ人のカルメル会修道女エーディト・シュタインが含まれていました。

アンネ達はお互い永遠の別れをし女子収容所に入れられ、母と別れ姉と共に終の棲家ベルゲン・ベルゼン収容所に移されます。ベルゲン・ベルゼンはガス室は無いもの環境が悪くチフスに罹る人が多かったです。

ある日、アンネは長年の友人ハンネリ・ホースラル(日記では「リース」)と再会します。アンネは会えないかと思った友人が生きていたことを知り、わずかな時間を合間縫って喜びを分かち合いました。

1945年3月頃、アンネはチフスに罹り15歳の若さで亡くなります。その数日後、ナチス・ドイツは無条件降伏し戦争が終わります。

アンネ一家で唯一生存したオットーはアムステルダムに帰り、協力者の一人ミープ・ヒースから1冊の日記帳を手渡されます。それは自分がアンネに誕生日プレゼントとして渡した日記帳でした。オットーは娘が綴った日記を読み、周囲の勧めもあって世に広めようと決心します。それが『アンネの日記』として世に知られ、映画、演劇、テレビドラマ、アニメにもなりアンネが経験した戦争の悲惨さと残酷さを訴えています。

※ 2024. 6. 23 追記


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