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あそびで育てるアソビリテーション(小児リハからあそびを考える)

あそびとはなんだろう、、、

 「おばあちゃん、おともだちとあそびにいってくるねー」
 「わるいことするじゃないよー」

 今は亡きおばあちゃんとのきまった会話です。
 あそびにいく時は、いつもおばあちゃんにお小遣いをもらって出かけていきました。

 子どもにとってあそびはとても重要な行為。

遊び(あそび)とは、知能を有する動物(ヒトを含む)が、生活的・生存上の実利の有無を問わず、心を満足させることを主たる目的として行うものである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 あそびは知能を有する私たちにとっても、生きていくうえで必要不可欠な行為です。

 子どものにとっての「あそび」は学びの場であり、自分を表現することばの代わりでもあります。
 
 私自身は「子どものリハビリ」を仕事としており、毎日子どもとのあそびを治療としておこなっています。
 あらためて、あそびとはいったいなんなのか、、、
リハビリで行うあそびは何の意味があるのか、、、
 
 セラピストという立場であそびを再考したいと思います。

子どもはあそびと出会う

 あそびとの出会いは「環境や世界と出会う」といってよいでしょう。
 
 私たちは日々変わりゆく世界の中で、感覚から情報をあつめ、脳の中で情報を処理し、時に記憶から体験を呼び覚まして、世界に自分を合わせて生きています。

 自然界をみてみましょう。人類ちかいチンパンジーも良くあそぶ生き物です。
 坂、川、穴、そして樹木。いろいろな環境をつかってあそぶことがしられています
 さらには群れという一つの社会のなかで他者とかかわることで、さらに複雑なあそびを発見していくのです。

 まさに、豊かな環境が多様な「あそび」の発見をもたらしているといえます。

 子どものリハビリでは、自然豊かでもなく、マットやトランポリンのような遊具、おもちゃがおかれたとても狭い世界です。
 でも、子どもたちはその中で遊具と出会い、おもちゃと出会い、あそびを展開していきます。「子ども自身の力」で発見し、あそびを生み出していきます。
 あらためて考えてみてください。
「大人があそびを指定する=言われたことをやる」
 「子ども自身が発見し、あそびをうみだす=自分で考えて行動する」

こどもに望むのはいったいどちらの姿でしょうか?

 自立した子どもを育てるため、あそびは「強制されるべき」ものではないのです。

記憶のなかのあそび

 「むかしは、ブランコでよく遊んだなぁ」
 「この遊びはたのしかったなぁ」
 
 昔を懐かしんで遊びを回想することがあるでしょう。子どもでも同じく、「楽しかった遊び」はその楽しいというポジティブな感性とともに思い出されるでしょう。
 そして、記憶からあそびを掘り起こして、もう一度あそぶこともあるでしょう。

 この記憶から呼び覚ますという行為が、リハビリではとても重要になります。運動をはじめ、社会で生活するうえでのルールなどは「記憶」の上に成り立っているからです。
 子どもはあそびのなかで体の使い方を学習します。学習した自分のイメージを「記憶」から呼び覚まし、運動の命令に変えて実行します。
 記憶やイメージを具体的な体の動きに変えることによって、運動の学習は深まっていくのです。

 記憶の中にあるあそびは、その時の体の動き、行動、ルール、感情などいろいろな要素が紐づいています。脳は神経のネットワークです。このネットワークを使うことで、複雑な情報の処理が可能になります。
 子どものネットワークは未熟です。だからこそ、何度も記憶から呼び起こしていくことでネットワークを活性化できると私は考えます。

自閉症とアソビリテーション

 子どものリハビリをしていると「あそびの幅をひろげたい」と希望する親御さんがいます。特に自閉症の子供は情動行為など、同じ遊びを繰り返し行う傾向が強いから、そう考えるのだと思います。
 自閉症の子供は、感覚の特性によって「情報の入り口」が狭かったり、偏ったりします。

ささいな変化を嫌って同じ感覚のなかで安定することを望みます。
 
 また、自閉症の特徴として「細かいところまで覚える」というものがあります。具体的に物事をおぼえるため、このおもちゃはこうしてこう遊ぶというパターンが細部まで記憶されます。これがこだわりの正体です。
 つまり、ふんわりと物事をとらえたり、似たものを集めたりといった抽象的な考え方が苦手です。似たようなAとBという二つのあそびがあっても、まったく別の物として認識することがあります。
 
 こういった感覚的な特性と情報の受け取り方の違いによって、結果として「あそびの発見」に偏りが出てしまうのです。
 
 自閉症の子供にあそびを発見してもらうためには、まず感覚の特性を理解する必要があります。とくにネガティブな感性を生み出す感覚は注目すべきです。
 感覚の過敏さによって「いやだ」「不安」「こわい」こういった感性を生み出さないように環境を工夫します。

 ほかにも、Aというおもちゃでずっと同じように遊んでいる子どもがいます。セラピストはそのAというおもちゃをつかって、意表を突いた全く違うあそびをしてみせました。
 こどもはおどろいたように「きょとん」とその様子をみていました。
 子どもにとっておもちゃの新たな一面をみせることで「発見」します
 それをマネするかどうかは別として、意外性や驚きが「発見」をうみだします。

 セラピストはあそびを提供するのではなく、子どもがあそびを発見できる機会を整えるのです。

自分に必要なあそびを自然にする子どもたち

 ここに「ペン」があるとします。

 ある子は「これをもって口に入れてあそぶ」
 ある子は「これをもって積み木を倒す道具としてあそぶ」
 ある子は「これを書く道具として使い、ぐるぐると無数の円を描く」
 ある子は「これをつかってお友達にお手紙を書いてごっこあそびをする」

 おなじ「ペン」という物でありますが、子どもの個性や発達段階によって遊び方に大きなちがいが見られるのです。

 大人は「ペン=書くときに使う道具」としてとらえ、それ以外の使い方をあまり思いつかないでしょう。そして、その固定概念を子どもに押し付けてしまうこともあるのです。

 子どもは実際の年齢ではなく、発達の年齢におうじたあそびを行います。私の経験からすると、子どもは誰に教えられるでもなく「今自分にとって必要な能力」を含むあそびを自然におこなっているように見えるのです。

 自然界をみてみると、肉食獣は子ども同士でじゃれあい、追いかけっこをしながらあそびます。これは「狩り」の練習にもなるのです。別に教えられたわけでもないのに、必要なことが学べる遊びを自然に行っているのです。

 先ほどのペンの例に戻りましょう

 ペンを口に入れる子どもは、唇の感覚を使って物や世界と関わるかなりの低年齢です。
 ペンを棒状の道具として使う子どもは、手の発達がこれから深まる段階。
 ペンを描く道具としてつかう子どもは、知的にも発達してきており、道具としての理解もできています。手指の発達がこれからどんどん進んでいく段階。
 ペンを使って手紙を書くこどもは、知的にさらに発達し、文字に大きな興味をしめしています。社会性も高まって他者とのかかわりを深めていく段階です。

 運動発達の年齢が遅れたり、知的な遅れがあると、実年齢とギャップ出てしまいます。
 これを無視して実年齢に合わせたあそびを大人が押し付けてしまうとどうでしょう。
 
 意図した遊び方をできないばかりか、できないことで子どもは興味を失ってしまいます。また、親自身も「上手にできない」ことによってイライラしたり、できない状況に不安を感じてしまうこともあるでしょう。

 でも、その年齢に到達していないからできないんです。

 子どもが自然に興味をもつあそびはなんでしょうか?楽しんでやるあそびはなんでしょうか?

 それが子どもにとって「いま」必要なあそびなのです。大人目線であそびを決めてはいけません。

現代のバーチャルな世界とあそび

 人工知能AIが飛躍的な進化を遂げる現代、多くの子どもたちはインターネットの世界に没頭します。
 一方、公園や自然では「あぶないから」「迷惑になるから」といった理由によって制限が設けられ、思う存分自然を利用して遊ぶことさえ許されない環境があるのも事実です。

 インターネットやゲームを否定するつもりは全くありません。

 むしろ、私自身は常にインターネットの世界に身を置いて、毎日ゲームで遊びます。

 だからこそ、気づくことがあるんです。

 バーチャルリアリティは、今のところバーチャルの域を出ないということ。

 画面のキャラクターがなにか物をさわったとしても、リアルの自分自身には何の感覚も得ることができません。においも感じません。音も再現された音をスピーカーを通じて耳にはいってきます。

 リアルな世界ではどうでしょうか。自ら動いて物をさわりにいきます。物から得られる触覚、重さ、質感、音、においなどさまざまな知覚を通じて、世界を知ることができます。

 いま私が感じていること、それが「真実」です。

 インターネットの情報、人から聞いた情報は真実だとしても「仮」であると私自身は思います。だって、私自身が実際に体験したのではないのですから。

 子どもたちはこの今を感じるリアルな体験をする機会が減っているのかもしれません。
 だから、インターネットで見た情報をそのまま真実として吸収します。

 リアルに世界を感じ取る体験を、とくに子どもが小さいうちはたくさんしてほしいと思います。

さて、目の前にいるリアルなコミュニケーションはどうでしょうか。
会話は表情や雰囲気、声音などの言葉ではない情報が7割を占めます。
この表情の変化などをバーチャルの世界では体験することが今のところ難しい。もちろん、映像をつかった通話ではそれが分かるかもしれませんが、距離感や雰囲気までつかむのは難しいのではないでしょうか。

リアルな会話体験は学校という場所で学ぶことができます。あそびの中でも学ぶことができます。そして家庭内で学ぶことができます。

対人スキルは生きていくうえでとても重要な能力です。

子どものうちから、リアルな体験を積極的に取り入れていくことが、今後の子どものためになるのではないでしょうか。

まとめ

 ブログ界隈では、AIや人工知能によう文章作成などの知識でいま大盛り上がりです。
 でも、いくら人工知能が導き出した文章も、バーチャルの域を出ないのではないでしょうか。そして、文章を創造するというクリエイティブな部分までAIにまかせてしまって大丈夫でしょうか?

 AIが導き出した答えや文章をうのみにしていってしまったら、いつの日かAIの思うように人間が動いてしまう、そんな未来を私は想像してしまいました。

この文章は、、、

私自身が子どもと遊びながら感じたこと

文章を読んで自分なりに解釈したこと

それを自分の言葉で表現した

「私自身のリアル」です。

 子どもたちも含めて、これからますます「自分で考える」という機会が少なくなるかもしれません。
だからこそ、あそびは「自分で考える」「自分で発見する」「リアル(真実)を感じ取る」
おおきなメリットをもったツールではないでしょうか。

よくあそんだ子どもほど、大人になっての幸福度がたかくなるという話もあります。

自由な発想で、子どもの思うがままに、あそびをたのしみましょう

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