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あかんべえをする太陽

 いつから本を読み始めたのか、記憶はさだかでない。文字が読めるようになる頃には、本を開く習慣は身についていた。絵本が本でないなどと言わないでほしい。一枚の写真が残っていて、そこに写っている赤ん坊は、眼前の絵本に描かれた太陽の身振りを真似している。そのようにして、僕は本を読み始めたのだった。
 もっとも、初めて本を読むのに夢中になったことは、記憶にはっきりしている。小学校の図書室の棚に並んでいた伝記の叢書を、端から順に読み尽くしたのだった。それはよくある子供向けの偉人伝のたぐいであって、それを読んだところで野口英世やマリー・キュリーのようになりたいなどと憧れることもなかったが、次から次へと本を取り替えるたびにまったく違った生のかたちがあらわれ、幼い僕を魅惑した。
 僕にとって本といえば、今でもまずは伝記であり、極論するならどの本も文字通りに「生の記述」として読んでいるように思う。もちろん、学問の道に入って美学と美術史学の基礎を叩き込まれたとき、芸術作品の伝記主義的解釈はまず最初に戒められたものだった。それは「寝言」だ、と。まもなくロラン・バルトの「作者の死」を、習いたてのフランス語で一語一句たどたどしく読んだことも、僕の思想の核をかたちづくった経験の一つだった。とはいえ、愚にもつかない伝記主義の寝言は捨て置くとして、伝記そのものには特有の魅力がある。それは、生それ自体の魅力に似て、言うなれば細部に宿る。プルタルコスの言葉を借りれば、「ちょっとした行動や言い草、あるいは冗談のようなものが、数万の死者を数える合戦やまれに見る規模の戦陣や都市包囲よりも、いっそうはっきりと人の性格を浮き彫りにする場合がしばしばある」ように、ちょっとしたもののなかにこそあらわれる。
 伝記に限らず本を読んでいてふと引き込まれていくとき、そのきっかけはいつもちょっとした身振りのようなものだ。あの絵本に描かれた、あかんべえをする太陽のごとく、何でもないようでいて忘れがたい身振りや仕草や表情が見える気がして、息づかいや口調や声色が聞こえる気がして、僕は思わず本を読み進めることになる。

(2021年6月30日—2022年1月4日)