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たんぽぽの種のように

このnoteは、浦崎雅代さんのnote「善をもって報復する」を読んでの感想文です。

note「善をもって報復する」は月刊の有料マガジンなので、ざっくりとあらすじを書くと、「息子を殺された母親が、その犯人の少年に慈悲の心をもって接し、世話をしているうちに更生し、親子のようにともに暮らすようになった」という感動的なお話でした。

そして、このnoteの作者浦崎さんのお母様も同じような体験をなさったそうです。

大切なご主人を交通事故で亡くしたお母様。しかし、事故の加害者の未成年の少年を許し、嘆願書を書かれたり、刑務所を何度も訪問して励まされたりされ、その後も仕事をお世話したり、親戚のようにつきあっておられたとのことでした。浦崎さん自身はそのことを知らず、加害者の方を「親戚のおじさん」だと思っていたくらい、というのを過日伺い、私は「本当にそんなお話があるんだ…」と、びっくりしました。

このパイサーン師のご法話と、浦崎さんのご体験を読み、私も自分の母のことを思い出しました。

ただ、母の場合は、こんなに素晴らしい結果が直接にあらわれることがありませんでした。

母は、長年、アルコール依存症の兄(私からみると伯父)の面倒を見ていました。伯父は勉強がよくでき、高校への進学率もまだかなり低い時代に兄弟の中でただ一人、高校を出て大企業に就職したものの、高学歴の後輩にどんどん役職を追い抜かれるなどのストレスからお酒に走り、逃げるように他の職についた後は転落の一途。奥さんや子供を顧みず、家庭も崩壊させてしまいました。

昼日中から一升瓶をかかえ、妹(私の母)に金を無心し、我が家の離れで正体をなくすほど酔い潰れている伯父の姿を何度みたことでしょうか。母は商売をしていたため日銭がある、そうした伯父の依存心もあったようです。手を出した商売が傾くたびに、母が借金を返済し、新しい仕事を世話しますが、そのかいもなく、やがて伯父は罪を犯し勾留されます。裁判中、伯父の家族が誰も味方してくれない中、母は一人で伯父の面倒を見に拘置所へ何度も足を運び、差し入れをして、また弁護側の情状証人として立ち、情状酌量を訴えることも行いました。

伯父に執行猶予がついて保釈された頃は、夫(私の父)がかなり進行したがんであることがわかり、手術・入院するなど、我が家の方もかなり大変な時期でした。
父の具合が悪くなりはじめた頃、母は、伯父の子供達を一時期我が家に引き取って学校へ通わせたり、生活保護を受けられるように随所に手続きを頼んだりもしていました。家事は私や兄弟でも手伝えましたが、父の入院先で洗濯や夜間のつきそいをするのは母でした(昔は結構、家族が世話をしなければならない病院があったのです)。そして一番上の私もまだ中学生だったため、生活費は母の稼ぎ一つに掛かっていました。風邪で熱が高くても仕事は休めず、一番、金銭的にも肉体的にも大変な時期でした。さすがに父が入院していた間は伯父も我が家に酔って現れることはなく、そっと見舞いにきてくれたり、伯父なりに頑張ってくれていたと思います。

父は長い療養を経て一旦退院したものの、ほどなくして病状が悪化し、再入院後、すぐに他界してしまいました。告別式が終わり、みなが火葬場に出かけている間に、留守居をしていた伯父は仏間の香典の一部を抜き取り、行方をくらませてしまいました。執行猶予期間であったことをおもってのことでしょうか、周りが色々と騒ぐ中、「自分がお金をちゃんと管理していなかったから」と、母は自分の非であるとして警察に連絡することもなく、その場を納めたようです。本当に芯が強く働き者で、情に篤い母でした。伯父の借金の肩代わりだけでも家が一軒建つほどだ、と何度も言っていましたが、妹として、どうしても伯父を見捨てることができなかったのでしょう。

しかしながら伯父はというと、最後までアルコール依存症からは立ち直ることができませんでした。いつのまにやらまた姿を見せるようになった伯父は、母が知人に頼み探してきた職を転々としながら、断酒の会に入ったり出たりを繰り返し、離婚し、子供と縁を切られ、内縁の家庭をもち、またその家庭でもお酒のため上手くいかなくなり、最後は自死を選びました。自死した伯父の確認や後始末にも、母が立ち会いました。

子供心にも、「母がこれほど力を尽くしているのに、励ましているのに、何故おじさんは立ち直れないんだろう」と、何度もなんども不思議に思いました。伯父も、しらふの時は「妹なのに姉さんか母さんのようだ」と照れくさそうにありがとうって言っていたのに。お酒を飲んでいないと、お魚をさばいて美味しく煮付けてくれたり、料亭なみの卵焼きを作ってくれたりと、料理の上手な優しい伯父なのに…。

そして、伯父にも、父にも、祖父にも、そして自分の子供や、友人たちにも、本当によく尽くし、惜しげ無く与えていた母ですが、晩年は脳梗塞から初期の認知症を患って生活が破綻し(私たち子どもには隠していました)、無理をして退院したせいか、心筋梗塞で急逝してしまいました。

二人ともとうに鬼籍に入り、今となっては何を尋ねることもできません。

はっきりと、目に見える事実は、あれほど応援していた母の力でも、伯父を立ち直らせることはできなかった、ということでした。

そして、母が亡くなった時には、「不条理だ」と思いました。なぜ、あんなに人に尽くした母が、さらに色々なものを無くして死ななければならなかったのか、と。

いいことをすれば、いいことが起こるんじゃないの? 人を手助けすれば、助けてくれるんじゃないの? どれだけいいことをしても、何も甲斐無く死んでしまうって、納得出来ない、と。

これは、長いこと、ずっと私の心の中にくすぶっていました。

震災や自然災害、突然の事故や病気で知人がなくなるたび「何故あんないい人が、ひどい死に方をしなければならないんだろう?」と思い、同じように「不条理」を感じました。

そして、今回の浦崎さんのnoteのパイサーン師のご法話を読んでいて、途中までは、「いいなあ、こういう風に、きちんと結果がでると「ハイ・アパイ」もやりがいがあるだろうなあ」と、考えていました。

しかし、ご法話の中に、こういう一節がありました。自分の心の中の凝り固まった「なぜ?」がすっと溶けていきました。

実際には、ソーシャルメディアで
取り上げられなくてもハイ・アパイの事例は
いくつもあるのです。
私たちが何かを失ったとき、
それを癒す最も善き方法は
ハイ・アパイ(許す、怖れなきことを与える)
ということです。

この部分を読んだときに、母の姿が脳裏に浮かんできました。
「目に見えた形」での実りはなかった、母の「ハイ・アパイ」。

でも「目に見えない」ハイ・アパイを実践している人は、世の中に他にも沢山いるんだ、と。

また、伯父自身の救済という「実り」には至らなかったものの、母は「怒りの炎」や「恨みつらみ」を母のところで断ち切って、次代の子どもたちに禍根が残らないよう、守ってくれていたのだと感じました。

確かに、私たち兄弟の中では、伯父を「お酒に弱い人だった」と気の毒に思うことはあっても、伯父のことを憎む気持ちはありませんでした。伯父によって、自分の暮らしや人生がゆがめられてしまった、と思ったことは一度も、ありませんでした。母が伯父の苦しみを思い、私たち子供にもそのように話してくれていたからだと思います。母自身が、伯父への怒りや恨みを募らせ、囚われ、それを苦しみとして自分の子どもたちに伝えていたら、私たちも伯父を憎み、もしかすると伯父の子どもたち(従兄弟たち)とも疎遠になっていたかもしれません。

母の「ハイ・アパイ」は、「伯父」という土の上には花を咲かせることはなかったのですが、「禍根を残さない」という別の形で、私たち子供の心の「肥やし」となって守ってくれていたのかな、と思いました。

今現在も、世界のあちこちで、「ハイ・アパイ」を行っておられる方はきっと沢山おられると思います。中には、母のように、「ハイ・アパイ」を行っても、直接的にはその人を完全に変えることが出来ない、そんなケースもあることでしょう。その人の持つしがらみ、社会の見方、立ち直るための対策や、病気の場合はその療法など、色々な条件が関係して、「願うような結果がでない」ことはあるかもしれません。

そうではあっても、「ハイ・アパイ」――「許すこと、怖れなきことを与えること」――は、やはり「憎しみ・怒り・恨み」の連鎖をたちきる素晴らしい働きをしており、すぐには、直接的には目に見えなくとも、その周りで、あるいは時を経てから幾つもの「善果」を生みだしているのではないでしょうか。

日常の中で、理不尽に怒りをぶつけられたり、あるいは、何かを見て、自分の中に怒りが湧き上がってきたとき、その自分の「怒り」を鎮めてみても、すぐには、「何の果報も得られない」ように感じるかもしれません。

でも「ハイ・アパイ」には、たんぽぽの種のように、ふわっと、軽やかに、どこか知らないところへ飛んでいき、時を経て、「自分が思ったのとは違う場所」で、芽が出る、そんな形のものもある、と、母の思い出から感じました。

もう本人に伝えることはできませんが、改めて母への感謝を強く感じることができました。
パイサーン師のご法話に、そしてそれを翻訳してご紹介くださった浦崎さんに、こころよりお礼申し上げます。

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