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16-2.ひとに見せる

『動画で考える』16.ひとに見せる

あなたと友人が同時に撮影した動画を互いに見せ合って、その違いを検証しよう。

あなたが撮影した動画を身近な友人に見せようとしたら、デジカメでもスマホでも撮影した動画を同じ機器のモニターで再生して、その場で相手に差し出すだけで良い。友人と旅行に出かけ、お互いを動画で撮影して、その場ですぐに動画を見せ合ったり、SNSで共有したりすることもあるだろう。それにしても、その場で同じ体験をした者どうしが、お互いに撮影した動画を、その場に居ながらにして見せ合う事の何が楽しいのだろう。

それぞれがその場で見せ合った動画には、少しずつ差異が発生している。相手の撮った動画にはあなたが映っているし、あなたの撮った動画には相手が映っている。お互いに向いている方向が異なっているし、場所を切り取ったフレームのサイズや視点の高さも異なっているだろう。スマホの機種が違えば、露出やピントの設定も異なって、画面の印象は大きく異なっているかもしれない。2人が同じ画面に収まるように自撮りした場合でも、あなたの構えたスマホと友人が構えたスマホは、同じ方向を向いていながらその軸が少しずれている。

仲間同士で同じテーマの動画を集め、その内容のズレと一致を確認しよう。

あなたが撮影した動画を誰かと共有するということは、あなたの視点をその誰かと共有するということだ。あなたと友人がお互いの動画を見せ合うということは、お互いの視点のズレを確認し合うということだ。そのズレが小さければ相手の共感を得やすくなるだろうし、大きければ大きいほど、そこには意外性と驚きが発生する。あなたが動画を「ひとに見せる」という行為は、このズレの幅を見せるということを意味している。

地理的に近い・遠いということと、このズレの大きさとは相関関係は無い。一緒に生活していても、物事の見方が大きくズレているということもあれば、遠い国に住んでいる者同士でも、視点がぴったり一致しているということもあり得る。身近な友人とお互いに動画を撮って見せ合えば、こんなふうに自分のことを見ていたのか!、という気付きがあるし、オンラインで動画を共有すれば、こんなところに自分と同じ見方の仲間がいたのか!という発見もあるだろう。

このような視点のズレは、普通に生活して会話しているだけでは気付けないものだ。例えば、子どもの視点と大人の視点。大人には何事もなく見えている、家の中や街の様子が、子どもの視点から見れば、通路を妨げる障害物や危険を与える脅威として見えているかも知れない。あるいは国籍や世代の異なる者同士でも、ものを見るポイントが、さまざまな観点で異なっているはずだ。お互いのどんなところを見ているのか、目の前の光景の何に注目しているのか、言葉で表現するまでもない小さなズレがあちこちにある。そんな場合も、お互いに動画を撮影して交換してみれば、そのズレがどんなものなのか気付くことが出来るはずだ。

それ程に、私たちは同じ場所で同じ方向に視線を向けていても、同じものを見ているとは限らない。むしろ意識して見ているものは、全体のほんの一部だといっても良いくらいだ。

私たちは目の前で起こっていることのすべてを見ることは出来ない。視界に入ってこないものは見えない、というだけでなく、自分に興味のあるものしか見ようとしない。目の前に、すぐに見つけられるような状態で置かれているものでも、過去の経験と照合して、自分の持っているイメージと一致しなければ、それを見落としてしまう。

だからこそ、同じパーティーに参加した友人たちと、それぞれが撮影した動画をSNSで共有してそれを並べて見ても、自分が見落としていた出来事や、誰かのちょっとした発言や、行為や表情や光景が記録されていて、見飽きることもなく楽しめるだろう。

オンライン上で、あなたの動画と視点が一致するたった一人の人物を見つけよう。

オンライン上で多数対多数で動画を共有するような環境では、同じような場所や行動を撮影しながら、そこに視点のささやかなズレを発見するような一連の動画が人気を集める。一対多数の関係で、大きな事件や誰も見たことのない景色や場所を紹介するような動画は、前時代的で古くさい印象を与える。それよりも、誰もがチャレンジ出来ることを行って、同じように動画で撮影し、共有する。そこには、少しずつ差異があり、それを発見して楽しむことが現代的だ。

動画を共有することで、あなたも私も同じ現代を生きて隣同士で生活していながら、少しずつ違う世界を見ていたのだという事に気が付くのは、これほどショッキングで興味深いことはない。もし、あなたの相手が特別な存在でその内面世界が異常だったとしても、それはあなたとは関係の無い別の世界の話なので、その事にはショックを受けない。自分と同じような、まったく違いの無い存在だと思っていた相手との間に、ズレを発見するのがショッキングなのだ。

私は私が理解できる範囲でしか世界を見ていないし、あなたはあなたにとって必要な事しか見ようとしない。そのことを認識するのが動画共有の原点だ。そこからスタートして、あなたにはこれが見えている?これはどう見えている?と、ひとつひとつ検証を重ねる。そのような差異を確認するために、動画を「ひとに見せる」ことは、まず一対一から始めれば十分で、動画共有サイトのように、再生回数を集める必要はまったくない。

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