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最後の浮世絵師、月岡芳年の魅力⑤

長かったシリーズもようやく最後です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
前回の分をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ。

最終回では芳年晩年の作『新形三十六怪撰』からいくつかの作品を紹介します。
この作品は芳年の画業の最終到達地点とも呼べるもので、その想像力の多様さと表現力の巧みさには驚かされます。
今回の記事では特に芳年の作品の特徴でもある「線」に注目してみましょう。


硬質な線

芳年の作品の大きな特徴に「硬質な線」があります。
筆の打ち込みが強く、そこから直線的な線が小刻みに折れ曲がる独特な作風です。
それは主に着物の輪郭やひだを表す際に用いられますが、人物の筋肉やしわにも使われます。
特に『新形三十六怪撰』では、不必要に思えるほど書き込まれた細かいギザギザが絵の四方の虫食いを模した枠にまで及ぶ周到さです。

『新形三十六怪撰』為朝の武威 痘鬼神を退く図 明治23年(1890)
源為朝は頼朝の叔父。父、為義も手を焼く乱暴者でしたが保元の乱では父と共に崇徳上皇側に加わり敗北。伊豆大島に流されます。この絵は八丈島にやってきた疱鬼神を為朝が追い払う場面。鬼神たちの体や為朝の着物の神経質なほどに角張った線は見る人の目を一時も休ませてはくれません。
『新形三十六怪撰』清盛福原に数百の人頭を見る図 明治23年(1890)
福原に遷都した平清盛は様々な怪異に悩まされます。この絵では襖に骸骨が浮き上がりますが、月明かりと襖の引手がそう見えただけのようにも見えます。清盛の着物のひだ、襖のススキの図柄のざっくりとした線が骸骨を表す円形をより強調します。

柔らかい線

「硬質な線」と同じく強弱はかなり強いものの、全体的には柔らかく長い線を描く場合もあり、それは主に女性の着物に多く見られます。
それは体のしなやかさを表現したいからなのでしょうか。

様式的な曲線で描かれた着物に包まれた女性像に、はっきりとした背景は描かれていません。
そんなものは美しい女性の前では無用だと言わんばかりです。

『新形三十六怪撰』さぎむすめ 明治22年(1889)
歌舞伎・日本舞踊の演目『鷺娘』に着想を得た作品。人の姿に化身した鷺が恋に悶えて息絶えるという筋です。純白の振袖は柔らかい線で描かれ、着物の質感や重さまでが伝わってきます。傘を巧みに背景にすることで視線は鷺娘の顔に誘導されます。
『新形三十六怪撰』小町桜の精 明治22年(1889)
舞踊『積恋雪関扉』に着想を得た作品。天下を奪う大伴黒主は成就祈願の祈禱に使うため、古木・小町桜を切り倒そうとします。するとそこへ遊女・墨染が現れ、彼を誘惑し始めます。彼女の夫は黒主に殺されていて、その仇を討つために墨染は桜の精となって現れたのでした。S字を描く美しいポーズ、着物の柔らかい質感、舞い散る桜の花びら、恨みを隠して見つめる墨染の視線…

闇の中に動きを表現する

闇の中での激しい動きを表すにはどうしたら良いでしょうか?
日本絵画の手法には煙や霞、水や風を様式化して、写実的な絵の中に織り込むということが行われてきました。
芳年はその手法を効果的に使うことで闇の中の場面全体を動きのあるものとして描きました。
それはもはや現代のマンガのようです。

『新形三十六怪撰』布引滝悪源太義平霊討難波次郎 明治22年(1889)
悪源太こと源義平は頼朝の兄で、平治の乱の時平清盛に敵対して処刑されました。後年、清盛が布引滝を見物した際、にわかに雷雨となり、義平を捕らえ斬首した難波経房がその場にいて雷に打たれて死にました。義平は彼に斬首される際、「雷となってお前を蹴り殺す」と言っていたのです。経房も雷も描かず、怒れる義平と彼を取り巻く雷雲の渦だけを描く大胆さ!
『新形三十六怪撰』内裏に猪早太鵺を刺図 明治23年(1890)
夜な夜な内裏を覆う黒雲の正体は怪物「鵺(ぬえ)」でした。警護役の源頼政が矢を射て、郎党の猪早太(いのはやた)がとどめを刺しました。漆黒の闇の中から見えてくる鵺の姿。暗雲をしっかりした輪郭線で描くというマンガ的表現。
『新形三十六怪撰』小早川隆景 彦山ノ天狗問答之図 明治25年(1892)
朝鮮出兵の船を造るため英彦山の木を伐り出そうとする小早川隆景。彼の前に天狗が現れ、伐採を非難します。風を表す線の間から隆景たちの姿が覗き見えるのが斬新です。

複雑な構図の極致

芳年の画面の構成力には本当に驚かされます。
どうやってこの構図を考え付いたのか、何枚下書きをしたのか想像もできない作品があります。
描かれているもののひとつひとつが別々の方向に動いているような場面を無理なく一つの画面に収めています。

もし芳年が現代のイラストレーターなら、これほどの画力、画面構成力を持つライバルは存在しないのではないかと思えるほどです。

『新形三十六怪撰』武田勝千代 月夜に老狸を撃の図 明治22年(1889)
勝千代は武田信玄の幼名。木馬が声を出し、「剣術と軍法、いずれが妙なりや」と問うので勝千代は「いずれも妙なり」と言って、一刀のもとに切り払いました。木馬を操っていたのは狸だったのです。手前に木馬の直線と赤い紐飾りの曲線。その奥には左に重心をかける勝千代と右に転がる狸。背景には左に傾く松の木という計算されつくした構図。
『新形三十六怪撰』蒲生貞秀臣土岐元貞 甲州猪鼻山魔王投倒図 明治23年(1890)
第①回の『登喜大四郎』と同じエピソードです。妖怪が出るという寺を訪ねた元貞は仁王と阿弥陀如来の化け物と出会います。投げ飛ばされた仁王。阿弥陀如来の腹からは骸骨が現れ蝶となって元貞にまとわりついたそうです。強烈な色彩、複雑すぎる画面構成、阿弥陀如来のご機嫌な表情。実は上の勝千代の図と構図が似ていることに気付けますか?

『新形三十六怪撰』を発表している最中に芳年は再度精神を病みます。
恐らく鬱病のようなものだったでしょう。ですが直接の死因はよくわからないようです。
54歳というあまりにも早い芳年の死によって浮世絵の歴史が終わるとすれば、あまりにも短い画業に終わったのが本当に残念に思われます。

明治の日本は『歴史画』を必要としていた

最後に芳年に代表される明治の浮世絵の日本絵画史における今日的な意味について私なりの意見を述べます。

明治時代の日本では国民全員が“日本人”としての歴史を共有し、英雄たちの偉業を称え、新時代の道徳を広めることが求められていました。
また国学尊王思想から影響を受けた維新を経て明治政府を打ちたてた人たちが、日本の歴史を視覚化したがったことは容易に想像できます。
そうした時代の要請に応える形で描かれたのが歴史画であり、西洋画でした。

19世紀のヨーロッパでは物語をリアルで劇的に描くアカデミックな画風が主流で、海外へ留学した画学生がそうした画風を日本に持ち帰ってきます。
そうして留学帰りの洋画家がまだ“ぎこちなく”日本の歴史を描いていた時、既に明治の浮世絵師たちは新時代の歴史画を世に送り出していたのです。

月岡芳年『『大日本史略図会』天照皇大神 明治12年(1879)
天岩戸を描いた絵は他の浮世絵師にもありますが、この作品には敵いません。自然な構図や、あえて天照大神が現れる直前のシーンにすることで神話を歴史の一場面のようにリアルに描こうとしています。
安達吟光『神武天皇東征之図』明治24年(1891)
芳年以外の歴史画を一点。神武天皇八咫烏(やたがらす)に導かれる様子。場面を大げさにではなく現実的に描くことで、神武天皇に現実感を持たせようとしているように感じます。
原田直次郎『騎龍観音』明治23年(1890)
観音菩薩に擬せられた天照大神の出現を描いているように見えますが、 それは新生日本の誕生を意味しているのでしょうか? おりしもこの作品の前年に大日本帝国憲法が公布されています。
山本芳翠『浦島図』明治26年(1893)
なめらかな肌の描き方やエキゾチックな顔立ちの人物たちに、 芳翠が学んだパリのアカデミックな画風の影響が見て取れます。構想自体も『ヴィーナスの誕生』と『ガラテアの勝利』をベースにしていて 「これが西洋絵画だ!」という気負いが感じられなくもありません。

日本が生んだ歴史画家、芳年

芳年の描く歴史や神話の物語には、その絵が一つの芸術作品として十分鑑賞に堪えるだけの中身が備わるようになっていきます。
それはこの当時西洋でも好まれていた正統的(アカデミック)な絵画に匹敵する、非常に洗練された感性で描かれた絵画だったと思います。

ここまで洗練された表現で人間というものを描くことができた絵画は、世界では恐らく西洋絵画しかありませんでした。
それを明治初期の浮世絵師がやってのけたのです。

歴史画は本場のヨーロッパでも印象派の登場以降、次第に廃れていきます。
日本でもモダニズムの影響はすぐに画壇に広がり、歴史画が日本に根付くことはありませんでした。
日本の西洋画における歴史画の存在感は小さなまま終わったと私は感じています。
日本の歴史画を満足のいく形で世に残せたのは、洋画家たちよりもむしろ浮世絵師たちではなかったでしょうか?
私はそうした潮流の中の、ひときわ大きな星として芳年を挙げたいわけです。

そして芳年たち明治の浮世絵師のムーブメントは『新版画』というジャンルに引き継がれていきます。
これについてはまた機会があれば述べたいと思います。
 

最後は芳年の『歴史画』の傑作を見ながら終わることにしましょう。
静と動の対比、シンプルさに込められた多くの意図、作品全体から伝わる気品は、この作品が間違いなく日本を代表する歴史画の一つであることを私たちに伝えてくれています。

『藤原保昌月下弄笛図』 明治16年(1883)
武勇に優れた貴族・藤原保昌は笛を吹きながら歩いていますが、 彼の気に押されて盗賊・袴垂(はかまだれ)は襲い掛かることができません。凛とした立ち姿の保昌と今にも切りかかろうとする袴垂。墨一色で描かれたススキと夜霧。 激しい気迫の応酬を続ける二人を風が包み込んでいます。

振り返って...

今回、私は芳年に集中して明治の浮世絵について述べてきました。
ですが芳年以外にも同様の作風を持った浮世絵師もいましたし、その後も新しい浮世絵の系譜は続いていきます。
何なら芳年の師匠・国芳も大変斬新な絵師でしたし、最近よく名前を耳にするようになった「絵金」こと弘瀬金蔵も“血みどろ絵”の先駆者と呼べる浮世絵師です。
日本の絵画表現には以前から大胆で、奇怪で、愉快で、深みのある感性が存在していたのでしょう。

月岡芳年の魅力を語るシリーズは以上です。
本当に長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださった方はお疲れ様でした。
いつかまた浮世絵を取り上げる時も、ぜひお付き合いくださいね。
それではまた!


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