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ブグロー『ヴィーナスの誕生』

私とブグローの出会い

美少女画で日本でも人気があるブグローですが、やはり一番に知っておきたい作品は『ヴィーナスの誕生』でしょう。
私のブグローとの最初の出会いもこの絵でした。

1980年代後半、当時通っていた大学の図書館の一番奥の暗い書庫には画集がたくさん所蔵されていて、たまたま開いた19世紀絵画の巻にこの絵はありました。

ブグロー『ヴィーナスの誕生』(1879年) オルセー美術館

衝撃が走りました。

「写真みたいにリアルな絵!」
別に絵画は写実的であればいいとは思っていませんでしたが、この作品はそれまでの理解を超えていました。
今まで知っていた絵画は「いかにも絵」というものでした。でもこれは違います。
「はい、これはヴィーナスですよ。」「これはガラテアですよ。」というような絵画しか知らなかった私にはこの絵は全く違ったものを描いたものに感じたのです。

ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』(1483年頃)
ラファエロ『ガラテアの勝利』(1512年頃)

「いかにも絵」のような絵ではない

ルネサンスの絵画は何が描かれているかは約束事でわかる前提で、「誰々が何々をしているところ」というような絵を描いています。
ですがブグローの絵画では人物が現実にそこにいるように描かれています。
人物だけでなく描かれた全て、海の水や光と影までもが執拗なほどのリアルさで描かれているのです。
ボッティチェッリの作品では髪の毛、衣の生地、海の水までが同じ質感で静止したように描かれています。当時の想像力ではそのようにしか描けなかったのだと私は思います。
それから300年以上たって、絵画はもっとたくさんの表現力を手に入れました。

ブグローの作品を見てください。
顔の表情は自然になり、髪の毛は柔らかく、光は髪の毛の間をすり抜けるように通っていきます。
肉体には細かい凹凸があり、指で押したら柔らかく弾力がありそうです。
海の水には透明感があり、大きくうねっているのが見て取れます。
ただしルネサンス絵画のような装飾的な優雅さはあまり感じられず、それに代わって計算しつくされた構図と信じられないほどの画力で見る人を圧倒するのです。

これに対し私が見た画集に添えられた、この作品への説明文は「なんとわざとらしいのだろう」というものでした。
それは当時の日本でのブグローへの評価を表したものだったのでしょう。
ですが私にはこの尋常じゃない画力が素直に素晴らしいと感じられました。

ブグローの超「現代的」な画風

私にとってこの作品が素晴らしいと思える点を簡単に言うと「現代的な表現」で「今の感性にとても合っている」ということです。

「古典的な描き方の作品なのに?」「全然前衛的じゃないぞ?」と言われそうですね。
ですがブグローは古臭い伝統に固執した画家などではなく、むしろ超現代的な画家だと思います。

まず『ヴィーナスの誕生』で彼は「ヴィーナス」を描こうとしたのでしょうか?
私にはそうは思えません。
ブグロー自身はヴィーナスを描いているつもりだったでしょうが、彼が描いているのはヴィーナスに扮した“裸体の美女”で、他の神々もまた同様です。

それではこれは何のシーンなのでしょうか?
私は単に「美しいシーン」だと思います。
現代ならグラビアや映画のポスターにイメージは近いと思えばわかりやすいかもしれませんね。そこに誰が、何が描かれているかよりも、単純に美しいビジュアルを表現しているようです。

例えばヴィーナスや神々たちの髪の柔らかそうな毛先、触れた時の感触が想像できそうな肌、現代でも十分通用するプロポーションと顔立ち、ヴィーナスがかき上げることで露わになる紅潮した耳たぶを見ればそれは理解できるでしょう。

また場面をあえて曇り空に設定することで全体的に色のトーンを落として絵に統一感を出すようにし、横からヴィーナスに光が当てて体の線を際立たせるところは、まるでスタジオで照明を当てながら撮ったグラビアのようだと思いませんか?。
しかもそれは写真ではなく人が手で描いたものなのです。

ブグローの絵画の現代的鑑賞法とは?

「そんなウケ狙いは芸術じゃない!」とか、「ブグローは立派な芸術家だ!」とか言って、否定派からも肯定派からも非難が浴びせられそうですが、私はそれではこの作品に関する限り十分な理解ではないと思います。

当時の絵画は貴族の邸宅を飾るものではなく、現代と同じように美術館や展覧会で多くの人に鑑賞されるものになりつつありました。
ですからそうした新たな顧客にも短時間でストレートに伝わる表現が好まれるようになったのだと思います。
しかもよく見ると多くの”作為”がこの絵には込められています。
ヌードグラビアに芸術としての品格をまとわせるために、ブグローがいかに苦心したかを探すのもこの作品を眺める一つの楽しみ方なのかもしれません。
いわゆる学校で教わるような遠い昔の芸術作品のイメージからいったん離れて、もっとシンプルに「きれいな絵」として眺めると、この絵が違和感なく受け入れることができるはずです。

科学と進歩の時代に何のストーリー性も無い神話の一場面を、ブグローはあれほどのリアルさで描きました。
この絵がいかに私たちと近い感性に基づいて描かれ、いかに多くの計算と技術が込められているかが理解できれば、保守派のリーダーのように思われてきたブグローの作品がとてもエキサイティングなものとして見えてくるのではないでしょうか。

よく考えてみてください。
現代芸術ですらがそこから何らかの意味やメッセージを読み取ることを強いてくる昨今に、この作品は見る人を唖然とさせることしか狙っていません。
私たちがイメージするような“退屈”で“よくわからない”「芸術」と違って、これってかなり“パンク”だと思いませんか?
そう思うと私は“不良”で“異端児”で“ヤバい”この作品が大好きになってくるのです。

尖り過ぎたブグローの作品

ブグローの他の作品を見ると、いくつかの作品では彼の画力が達者すぎて「あんた描きたかっただけだろっ」と言いたくなるようなものがあります。

『難しいレッスン』(1884)
ロリータ趣味と言われますが、眉や目をよく見てください。
140年前と今とで美人の基準が変わっていないことに驚かされます。
『渇き』 (1886)
明らかにヤバい絵。何に渇いていたんでしょう?
でもこのテーマをこれだけ美しく描いてしまうところに「パンク」を感じます。
『聖母と天使』(1900)
綺麗なだけを究極まで追求した作品!
単なる美しさもここまでくるとひれ伏したくなります。
『オレイアデス』(1902)
裸!裸!裸!
これは美と均整を重要視する古典絵画ではありません。
過剰さに魅力を見出す「荒くれ者」の美学です。

ブグローは“優等生”だったのでしょうか?
確かに同時代の人たちにはウケました。良き伝統の継承者ともみなされました。
ですが、ただ大人しくて、平凡で、面白味の無い画家でなどなく、むしろ尖りまくった前衛的な画家でした。
彼の作品がその後人気を失ったのは、彼の美学を理解できる層が一時的にいなくなったからでしょう。ですが1970年代くらいからそれを再評価する風潮が復活してきたようです。

今日欧米ではブグローも生前の人気を取り戻しています。
では日本は?まだまだですね。わが国では芸術が真面目で上品な文化だと思われているからでしょう。
芸術ってもっと不真面目で、インモラルで、ヤバいものなんです。そこをもっと皆さんにもわかってほしいと思います。

というわけで、次回の記事ではブグローとセットで語られることの多いカバネルの作品、こちらも『ヴィーナスの誕生』をご紹介します。
こちらもかなりヤバいのでお楽しみに!

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