予測よりも構想「私は未来をどうしたいのか?」
こちらは
1967年につくられたCM。
1993年の未来を描いています。
オンラインで書籍や映画購入、
カーナビ、ETC、ATMでチケット購入、
TV電話、リモート会議、
ICU、アップルウォッチ、人工知能
などを「予言」している
ように思えますが、おそらくこれは
「予言」ではなく「構想」
当時の英知を集約して、
構想中の未来を編集した、
というのが僕の見立てです。
■芸術家のヨーゼフ・ボイスは、
「社会彫刻」という概念を提唱。
あらゆる人は、自分の美的感性と創造性をもって世界の形成に寄与するアーティストであるべき。
と説きました。
複雑で不透明な現代社会。
リーマンショックもコロナも誰も予測できませんでした。
過去のデータをもとに
「予測」するのではなく、
未来を「構想」し、
構想した未来の実現に向けて
声を上げ、行動を起こす。
「未来はどうなるのか?」ではなく
「未来をどうしたいのか?」です。
■フランスの哲学者・サルトルは
実存主義者であり、
「私はどのように生きるべきか?」を重視しました。
人生や社会に対して
主体的にかかわることにコミットする。
常識やルールに縛られることなく、
人生を自分自身でコントロールし、
芸術作品のように創造することで、
自分の可能性に気づくことができる。
可塑性を秘めた未来に
どのような鋳型を提供するのか。
自分の未来は
自分の構想によって導かれる、
ということでしょうか。
■人生で
僕は誰のために何を
極めたいのか。
うまくいかなくても
一生やり続けたいと思えるものは何か。
誰から指示されるのではなく
自らの意志と情熱で
未来を歩いていくことこそ
幸福といえるのではないのか?
あれこれ考えるもよし。
引いて引いて、丸裸にして本質を見極めるもよし。
「どうしたら稼げるか?」ではなく
「どうしたら喜ばれるか?」を構想する。
お金を集めるのではなく
感謝を集める。
誰に何をしてあげたら
「ありがとう」と言ってもらえるのか。
自分にとって真の幸せとは?
誰にとって、どんな存在でありたいのか?
■自分がとことん
おもしろがって
楽しまなければつとまらないけど、
自分ひとりが熱くなってても
やっぱりつとまらない。
自分も全体の一部分
社会の一部分として客観視する。
ちょっぴり冷めた視点が
欠かせないと思う。
「ひょっとしたら」という希望と
「うまくいく」かどうかは別物。
できなくて当たり前。
だから思い切って行けるところまで行く。
ロマンとか夢とかよりも、
若干、乾いた客観志向とともに
爽やかな「なるようになるさ」
という行動志向をもって
社会というキャンバスに
自分を立体的に彫刻していこう。
■一貫したビジョンや
ストーリーがあるからこそ
戦略や戦術が理解され、
組織の隅々まで浸透し
人々の心にスイッチが入る。
シンプルで誰もが理解できて
行動できるようなものでなければならない。
そうなって初めて
人生やビジネスが総力戦となる。
自分の「正しさ」を主張して
協力をあおぐという傲慢さを廃棄し、
「使命感」という自己満足より
「楽しむこと」が結果として使命を果たすというロジック。
すべての最適解を自分で出せる
なんて知的傲慢、というか滑稽です。
「満足できる」解を求める
柔軟さも忘れずに。
未来構想の一歩を
今日もしっかりと進めていきましょう。
最後まで読んでくれて
ありがとうございました
それではまた明日。
おつかれっした!
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