メタ認知について

英語のWIKIによると

Metacognition is "cognition about cognition", "thinking about thinking", "knowing about knowing", becoming "aware of one's awareness" and higher-order thinking skills. The term comes from the root word meta, meaning "beyond", or "on top of"

私は言語を教える先生であり、音楽を学ぶ生徒なので、言葉と音楽と対象は異なるものの、時々、両者がリンクしてAHAモーメントが来ることがある。
 たとえば、日本語を教えていて、すごく分かりやすく良い説明をしたと悦に入っていたその一分後に、「これってどういう意味ですか?」と聞かれたりすると、それはもうがっかりする。今言って、うなずいてたじゃない!聞いてなかったの?と。わからなかったらその場で質問してよ、と。
 それが、チェロのレッスンを録音して家で聴きなおしてみると、果たして私は先生が絶妙のタイミングで「音が低い」「そこは指をおさえたまま」などと指摘してくださっているのだが、見事にスルーしているのが明らかに分かるのだ。恥ずかしいやら先生に申し訳ないやら。それは無視しているのではなく、弾くのに必死で耳に入ってきていないのだ。完全に聞こえていないのだ。何のために高いレッスン料を払っているのやら。
 さらに、先生の指示が聞こえて認識できても、その通りに体が動かないことも多々ある。小指~と言われているのに、脳が小指はこれ、と認識せずに薬指が動いていたり、、。もっと下、と言われて上に動かしたり。真っ直ぐしているつもりで真っ直ぐになっていなかったり。
 もう先生の声のインプットから自分の指を動かすまでが、まるで伝言ゲームで、どの段階で伝達が切断されるのか分からないのだが、最後は似ても似つかないアウトプットとなってしまうのだ。う~ん、体の神秘。というか私の体のポンコツさよ。
 

というように、立場が逆になると色々な気づきがある。これもメタ認知といえるだろうか?
 とりあえず、教師としての私は、生徒が「知りたい」と思う前に説明しないよう心がけることかな。じゃないとどんなわかりやすい説明も馬の耳に念仏だから。 あとは、大事なことは何回も繰り返して言うこと。一回で生徒の知識として定着して、さらにアウトプットまでできるようになるのは、無理というものだ。 
 生徒としての私は、常に予習復習して「疑問点」のリストを持っていること。それだけで、先生の一言が自分のリストのどれかにヒットする確率が高くなる。全く知識ゼロのことについてありがたい情報をもらっても、結局何だかわからなくて終わってしまう。でも、疑問点を持つというだけでも関心があることだから、そこにヒットした新情報は100%定着するのだ。
 で、アウトプットを正確にするのは、筋肉の問題だから、慣れて楽になるまで練習あるのみだ。

 生徒の立場を先生の目線で、先生の立場を生徒の目線で見直すだけだけど、これも立派なメタ認知じゃないかしら。どうでしょうか。

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