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[雑記]楽しいことはぜんぶやる

人生が変わる時は突然だと言うけれど、本当にそうだと思う。ただ私の場合は、パワフルな人みたいに「自分で思い通りに道を作った」感じではなく、自分の気持ちが半分に環境からの影響が半分という感じ。
コロナウイルスに世界中が振り回され、「アフターコロナ」という言葉とともに新しい生活様式が生まれて今後の歴史に記されるはずの2020年は、奇しくも私にも変化の年となった。父が倒れ、自身も調子を崩し、一人で東京にいるよりはと実家に戻ることを決めたからだ。今年の頭にはこんな状況が来るとは考えもしなかった。実家に戻るにしろずっと先だと思っていたし、仕事の頭打ち感から何かを変えたい気持ちは確かにあったものの、正直こんな形では訪れてほしくなかった。

過去、私が決断したことの一つに上京があったが、その時に家族は何も言わなかった。学生時代からやりたいことは自由にさせてくれた一方で日常は過保護寄りな家だったが、東京での仕事が決まった時は「応援するからがんばりなさい、でもしんどくなったらいつでも帰ってくればいいよ」という応援だけだった(住む所の希望は言われたけど)。
そしてもう一つが今回の帰郷。きっかけとなったできごとが起こったのは約半年前、東京でコロナの波が最大になる少し前だった。慌てて病院に駆けつけ、様子を見届けて安心したので一旦東京に戻ろうとした矢先に父の容態が急変し、仕事をキャンセルした直後に東京での行動制限が始まってそのまま戻れなくなった。
そのうちに季節は2回変わった。寒かったのが暑くなって洋服に難儀していたのが、また着られるようになるくらいの時間が経った。父は元気だった頃のような、寝ているだけに見える顔色に戻った。挨拶の声で目を覚まし、タイミングがよいと時々笑ってくれるようになった。
一方の私といえば、ある時から突然身体のあちこちに出るようになった症状にいろんな病院や整体などをまわり、最後の最後に心療内科へかかってようやく原因がわかって落ち着けるようになった。もう経験したくないしんどい誕生日を迎え、体重は8キロ減り、ベルトの穴は2つ減った。そんなことがあっても少し元気になった時にはうれしくなり、何気なく仕事の話をすると「そちらにいたほうが仕事が続けやすいのなら無理に戻ってとは言わないよ」と母は言ってくれた。でも、父のことはもちろん、仕事を受けてみたものの元のペースではとてもできなかったこともあって、身体を治すためにもリセットしようと決めた。

仕事については、地方移住系メディアの依頼を受ける中で(意識して始めた訳ではなかったが)、働き方そのものを考えさせられる機会が増えていた。2000年代初頭くらいまでは、地方在住であることはメディアの仕事をしたい人間にとってはものすごく大きなハンデだった。有名な雑誌や何かに関わりたいなら東京に出るしかない。関西にも出版社はあるが未経験者が関われるパイは少なく、特に私の場合は学生時代の大きな判断ミスもあり東京に出るほうが手っ取り早かった(修論が書けず、ある在阪出版社のバイトをやめてしまった)。書店で見かけるような出版社が出す専門誌の欠員募集に運良く通り、親を安心させることができた。
それから17年。ぼちぼちと働いてきた間に私にも少しは繋がりができた。作業のためのツールも格段に進歩し、場所を問わずに作業できるようになった。打ち合わせや取材ならWebツールを介せば相手の顔を見てできるし、ノートPCとインターネットがあれば原稿を書いてメールで出せばいい。東京の現地取材には行きにくくなるが、レビュー記事なら機材を送ってもらう住所が変わるだけだ。
そもそも場所を問わず、ネットを駆使して働く形は、物理的に現地に赴けない海外や遠方にいる人の記事を書く自分や周りでは、すでに普通のことだった。帰省時にMacBookを持ち帰り、実家で作業をするのも日常茶飯事。テレワークの話が出るようになってから初めて「そういえばこれもテレワークだな」と気づいた。海外に拠点を移して日本の仕事を続ける友人がいることも、場所に縛られない働き方の可能性を感じさせてくれた。
それに加え、コロナによってビジネス界の常識も変わってきたことがあった。一般企業にもzoomを始めとしたWeb会議システムが普及し「打ち合わせ(取材)は先方に出向かないと失礼」という慣例が弱まりつつある。社員を危険に晒したくないから来てくれるなという企業もあるくらいだ。ついでに言えば、国も地方創生の一環として「地方で休暇を取りながら仕事をしよう」と、テレワークの応用とも言えるワーケーションを促進し始めた。
その他にも、マンションの一室に閉じ込められる辛さを実感した子どものある家族が、都心の生活に限界を感じて地方に戻ったり、地方での新しい生活を検討していたりするとも聞く。ちなみに、県別の魅力度調査の話題がラジオで流れていたが、「茨城が初めて最下位を脱出した」話題と並列に今年初めて東京の順位が下がったと言っていた(コロナ問題による意識変化が原因だろうとの話)。まだ始まったばかりとはいえ、時代の移り変わりを感じずにはいられない。いいことはほとんどないし窮屈この上ない世の中になったけれど、慣例が変化し地方にも目が向けられるようになった点だけは喜ばしく、自分たちのような人間を働きやすくしてくれたことは間違いない。

人の決断には、自分の気持ちだけでなく背中を押す何かがある。上京は、「30歳になる前に、今関西から出なければ一生自立できなくなる」という就職氷河期ど真ん中に文系大学院を卒業した人間の切迫感のあったところに欠員募集を見つけたこと。帰郷は、これまで書いてきたような父の容態への心配や自分の体調不良に対して距離をカバーしてくれそうな環境ができてきたこと。私が身軽な立場だったことも含め、どちらも自分の気持ちを周りの環境が背中を押してくれた結果だ。

「単身者の荷物量じゃない」と言われた引っ越しは、荷造り込みのコースを頼んだものの、そこに到るまでの取捨選択がものすごく大変だった。17年間に詰めこまれたあれこれを判断し、仕分けて捨てていく。当時はとても大切だったのに今はいらなく感じる物も多く、自分には無理だと思っていたわりには潔く手放せて驚いた。手放すのが寂しく感じた物は大事にしてくれそうな友達に引き取ってもらったが、皆喜んでくれて安心した。最終的に「87点です」と言われた点数が多いのか少ないのかはわからないけど、1Kにぎっちりと詰め込まれた荷物を半分以上減らせたのだからまあ上出来だろう。
新築で入った建物は、17年住むうちにすっかり中古物件の域になった。あまりの長さによく驚かれたが、17年前の私が予算を1万円オーバーしても階を一つ上にして、窓が多く日当たりと見晴らしのいいあの部屋を選んだことは褒めてあげたい。住むうちに、私自身の家に対する条件が日当たりと見晴らしにあると気づくこともできた。最後の日は、荷物がまったくなくなった部屋を磨き、改めて外を眺め、小さくではあるが練馬からでもスカイツリーと東京タワーが見える希有な風景を記憶した。

新しい生活がもうすぐ始まろうとしている(これは実家に戻るまでのホテルで書いている)。理由が理由だけに話すのが若干辛く、友人の一部にしか伝えなかったので、後から知って残念がってくれた友人が思った以上にいてくれた。そんな人たちにも伝えたくてなんとなく理由を書いてみた。

これも書けるまでだいぶ時間がかかったし、体調が完全に戻るまでには少しかかりそうだ。お願いしておきながらまだ実現できていないインタビューもあって我が事ながらヤキモキする。そんな状態だけに、仕事の面でよかったのか悪かったのかはまだ判断できない。わかるのは一年後くらいだろうか。振り返ることでしか私たちは決断の結果を判断できない。たぶん、なるようにしかならないのだろう。

私は東京がとても好きだ。情報がたくさんあって、見たい物がすぐ見られて、手に取れる。いろいろなことを知り、学べることのできる生活は本当に楽しかった。いや、楽しかったと過去形にはしたくない。どちらかを選ぶしかなかったのは昔の話なのだから。
"Good Luck on Your Journey"
東京最後のランチで、友達がこんなメッセージを送ってくれた。上京したころより、東京までの距離はずっと近く感じるようになった。新しい旅の拠点が変わっても、私はぜんぶ楽しみたい。そうできるようになった時代を楽しまない手はないはずだ。だからこそ、東京で仲良くしてくれた友人たち、これからもどうぞよろしく。関西の古くからの友人たち、これからまたどうぞよろしく。

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