クライムズ・オブ・ザ・フューチャーの感想

   普通の人には理解できない価値観を描いてみせるというのはとても困難なことで、その価値観を耽美的でグロテスクな技法をもちいながらえがいて見せたと考えるなら、いい作品だったと思う。
   理解できない価値観というのはなんだろうか?それはその人の文化圏や立場等によってかわってくる。めずらしい動物のめずらしい生態や、外国の奇妙な風習を見ることが好きな人にとって、その生態や風習は価値のあるものになる。あるいは、こちらが奇妙だと思っている人から見れば、私たちのことを奇妙な風習を持つ人びとと思うかもしれないし、私たちに価値をまったく感じないかもしれない。
    それなら、どうしてこの作品に登場する人びとは、私たちから見て理解できない価値観を持っていると言えるのだろうか? "内なる美"(inner beautiesと聞こえたがちがうかもしれない)がどんなものか具体的説明はなかったが、外部の観客であるわれわれからすると、内蔵を見せたり摘出する様子をおもしろがって神秘的な価値を与えているにすぎない。かつてのエロ・グロ・ナンセンスを慕う好事家のようなものだと思う。痛みに高尚な理念を与えて実践することも、宗教的には修行とか苦行と呼ばれたり、サディズムやマゾヒズムといった分野で知られているが、いずれにしろ普通の人とはへだたりがあるからわからないのだ。
    わけのわからない価値観を持つ人びとについて2時間見ることに、どのような意味があると言えるだろうか?つまり、異国の風習や儀式の様子を説明なしに2時間観ることになったとして、観客は何を考えればよいのだろうか?もちろん、ひとつには自分のもっている価値観が絶対的で安定したものではないことを確認することで、それは本作にかぎらず、さまざまな媒体を通じて経験することがあると思う。
   もうひとつは、そもそも人間が理解できないものを提示されたときに、それでも当事者にとって重要な意味を持つ何かが存在することを確認することで、異なる価値観ではなく、そもそも人間の持つ認識の単位、人間の自然言語ではとらえることができない「何か」を感じとることにあると思う。
    究極的にはそれは超越的存在だと考えるが、そこまでいかなくても、この「宇宙」のなかで人間から「進化」した「何か」の価値観というものに触れることは興味深くはないだろうか。
    映画の「メッセージ」に出てきたエイリアンの言語を思い出す。原作もふくめて詳細には書かれていなかったが、それは人間の持っている分節言語とはどうやら違うタイプの言語のようで、主人公はその解読に苦慮していた。
    普通には理解できない感覚、理解できない価値観に思いをよせて、人間をこえた存在に触れる喜びというのはあると思う。だから本作はすばらしいのだと言っているのではない。普通にはわからない感覚をえがいているのだから、良いとか悪いという普通の判断が通用するわけがない。       
    ただ、自分の普通の価値観とは無関係なものをじっくりと見る機会は貴重だし、普遍的ではない価値観がエイリアンやゲームのScornのような系譜にある映像によって描かれていることは個人的な興味の範囲内で、おもしろく見ることができたと思う。


   つけくわえると、本作のシーンのほとんどは空や風景をうつしていない。監督はきわめて閉鎖的な環境を意識的につくりだしている。なぜ閉鎖的でなければならないのだろうか?それはモチーフが「内なる美」によって規定されているからだ。息子を殺した母が、息子の体内に何があったのかと聞かれて「宇宙」(outerspaceと聞こえたがちがうかもしれない)とこたえていた。閉じた人間の内臓、閉鎖的な環境の映像と最大の宇宙とを、いいかえると、宇宙の支配原理と物質の最少単位であるアートマンとブラフマンのように、最少と最大を同一視する発想が映像原理の根本にすえられているとも言える。


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