『イノセンツ』の感想(ネタバレをふくむ)


   特殊な能力を表現するのに派手な光線や爆発はなくても良いということを示した傑作のひとつではないだろうか?  スターウォーズやX-MENももちろん好きだが、装飾をはぎとったものにも見るべきものがあるし、技術革新によって画面が華美になる一方の映像表現は、立ちどまってみても良いかもしれないと思わせる出来だった。想像上の産物の核心的な部分は何だろうかと考えてみる時間があると、より本質的な表現につながるのかもしれない。
    本作ほどではないが、同じように無駄をそぎおとした手法でつくられた作品という点で、岡本喜八の『ブルークリスマス』を思い出した。エヴァンゲリオンのブラッド・タイプ・ブルーの元ネタとして著名なSF映画だ。

岡本喜八,『ブルークリスマス』,東宝,1973.
https://natalie.mu/eiga/film/134965より

    この映画では特殊なことはほとんどおこらない。少数の人の血液の色がなぜか青くなるだけで、血液が青い以上のことは起きていないのに、それに過剰反応した社会の混乱をえがいている。だからシンプルなSFとなっているし、主軸が社会の過剰反応である点で現代人にも理解できる。どれほどすばらしい特殊効果を使っていても、現代人の置かれた状況に呼びかけて、フィードバックしなければ評価しづらい。かえりみられない立派な置物になってしまう。
   たちかえって、本作の能力の発動をしめす制限された表現方法のなかで、なにより特徴的な表現媒体は音だった。鍋の蓋をまわすシーンのように反復する音は印象にのこりやすいし、特に顔や目元のアップで発生する高い音は、能力を発動するために集中するときの音だが、観客にしか聞こえていないものだ。漫画なら効果線で表現されるところだと思う。迫力が画面のなかにあるのではなくて、観客が音をきっかけにして、みずからうみだす仕掛けになっている。
    もしかしたら、感動や迫力といったものは基本的にそのようなものなのかもしれない。そのことがわかりやすい形でしめされた映画だったし、この映画に迫力を感じなかったとしても、そのことを傍証していると言えるかもしれない。感じやすく、なんらかの危機に瀕した子供にしか認識できない能力は、登場人物たちと似たようなキャラクターを持つ観客だった場合に、そのこころのうごきと類比する。   
    また、こころが危機に瀕した子供しかその能力をあつかえない、もしくは、それを知覚できるのが不安定な子どもに限定されているという点について、今度は『となりのトトロ』を思いだす。   
   これはひとつの解釈にすぎないが、トトロを見る直前のメイとサツキの心情はどのようなものだったろうか?たとえば、はじめてメイがトトロに出会ったとき、引っ越してきたばかりの慣れない土地でひとり遊びにふけっていた。父の帰宅を雨のバス停で待っていたときや、メイが迷子になって村中の人たちが探していたとき、トトロはあらわれた。トトロは子供に寄りそい、たすけてくれる頼りがいのある妖精とも考えられるし、子供の不安が具現化した存在なのだと考えることもできる。つまり、不安定な何かをこころにかかえた子供たちにだけ共通して知覚できる「大人には理解しがたい」なんらかの能力は、本作の能力と通じるものがある。ラストに近いシーンでイーダの母親の顔をあえて映さなかったことは、このことを強調していると言えるだろう。
    大人には理解できないことが重要な点だ。いや、正確には子供であっても理解できるものと理解できないものがいる(映画の前半くらいまでの主人公イーダや、終わりちかくにアンナとベンの対決に反応しなかった子供たちがそうだ)し、理解できるようになることもある。『トトロ』と同じように、それは不安をかかえた人物たちだ。
    アンナに気をくばりがちな両親のもとで孤独を感じているイーダがアンナのことを理解しはじめるのは、アイーシャという第三者の仲立ちがあったからだが、ひとり親の彼女自身も、もちろん虐待をうけるベンもふくめて、全員が不安定さのなかにあった。子供達はそれぞれにつらい経験のなかに生きている。ふしぎな能力はそれ自体で魅力なものであると同時に、人物たちに暗い影をさすものでもある。暗い影をかかえた(少なくともそう思っている)観客のなかには、かれらと同じように「バナナ」と言える人がいるかもしれない。          
   しかし、それは単にこころを読む能力ではないし、まして物をうごかしてみせる力ではない。映画のなかではそうかもしれないが、観客にとってはちがう。その経験を持っている人にだけ理解可能な何かだ。
   そのようなものは、私たちにも広く存在していないだろうか。恋の破綻や、仕事の不調、家族との軋轢、特殊な病気等々、経験がない人には深く了解され得ないものだろう。男だから女だから、仕事だから、親だから子だから、病気だから仕方がないなどと、現在の問題はあなたのほうに主に原因あるいは責任があるのだという言葉を聞いたことがある人は、イーダが母から迫られたように真実を語っておらず、あるべき状況を作りだしていないと見なされることが暴力的な発言になりうることを知っているだろう。現在の状況は自分が積極的に作りだしたものではないにもかかわらず。(本人に原因があると見なせる場合を否定しているわけではない)     
    このような、本人が望んでいない経験を望まずに得た人に共通する何かは、この能力に類似した何かだと考えるが、同一の経験でもないので、多少の共感が人との橋渡しをしてくれるにすぎない。たとえアイーシャのように人のこころを読める能力であれ、アイーシャの親との関係はイーダともベンともことなり、また本人が望んだものでもない以上、その能力は『AKIRA』と同じようにまったく独立していて、自分のなかでひとりきりで理解しなければならない。団地の自分の部屋の窓から、ひとりで外を見つめている子供たちのように、その能力は最終的には孤独のなかで理解されなければならない。
    アイーシャがベンの苦痛を知っているとしても、理解して対処することができるわけではなかった。アイーシャの能力はアイーシャによって、ベンの能力はベンによって理解されなければならない。理解にたどりつかない場合もあるだろう。ベンは能力を高めることはできても、理解することはできなかった。あるいはその過酷な現実をうけいれるには幼すぎた。
   不安な人間は、ときどき他人への共感を欠く。自分の言動に良いこととわるいことの区別がつかなくなる。あるいは普通の対応ができない。人とスムーズにコミュニケーションをとれないから、距離をあやまって、近づきすぎたり、近づき方をまちがえやすい。それがそのまま能力の使い方に通じる。おもしろがって遊ぶこともできれば、背中をつきとばして、心臓をとめることもできてしまう。あえて誰にも近づかないという選択は、正しくはないかもしれないが間違うことは最少になるだろう、その選択自体が間違いと感じられないかぎりは。    
    個別的な経験をとおして、望もうと望むまいと得られた何かが本作での能力に対比され、映画を見たものと見ていないもの、評価するものと評価しないものとの対比をも自覚させる。
    この能力は、まさにそういった点で宿命とでも呼ばれるべきものだ。宿命が何であるのかはほとんどの場合だれにもわからない。本人が望んでそうなったわけではないという点で、経験とそこから発生する感覚や考え方といったものが似たようなものと呼べるのではないかと言えるにすぎない。あくまで個別的な経験を通じて部分的な共通了解だけが生じる。   
    宿命と経験とはたしかに異なるもので、宿命のうちに特殊な経験に関するものと能力者に関するものとが混じっているのは、能力者の発動する能力が一部の観客に対して証拠を欠くことのないためであり、特殊な経験がお互いの間には発生しないことを示すためだ。(以上はパスカルのパンセⅡの換骨奪胎)映画において、かれら全員(子供たち、親たち)の間には共感はあっても、経験の共有はなされない。経験の個別性が能力の個別性を裏打ちする。この映画には、ひとつの事態をいっしょに経験(能力に気づくこと等)し、ことなる感情へみちびかれていく様子をえがいている。宿命は評価不能であり、私たちには人物たちへの共感の橋渡しがかろうじてかかっている。それはあくまで人間という集団内部の理解であって、まったくその外へ向けられたものではない。だからじみじみとした趣がある。

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