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人間は結果から理由を探す/偏見とアナロジー思考とクリティカルシンキング

僕は自分ではあまり偏見とかは持ってない方だと思っているんですが、どんな人もバイアスや偏見は持っている、あるいは持ちうるんだろうなと思うことがありました。
以下、事例をわかりやすく簡略化しますがざっくりこういうことなんです。

街を走る自動車が交通事故を起こした。
ドライバーは80歳の男性だったという情報が出る。
そこで僕はこう思う。
「ああ、だから高齢者に運転させちゃダメなんだよ」と

これって偏見ですよね
事故の原因が何だったのかとか事故当時の状況とか知らないのに、ドライバーの過失だと思い込んでる。

実際には、ドライバーは何も悪くないかもしれないし、ドライバーの過失だったとしても加齢とは何ら関係ない理由かもしれない。
そもそもこのドライバーがの過失だったとしてもそれは個別の事案に過ぎず、高齢ドライバー=危険という一般化はできないはず。にもかかわらず僕は高齢者を一般化してダメと決めつけている。

実際にあったことはこんな単純ではなかったのですが、上にあげた「高齢ドライバー=危険」という図式は僕自身の心の中に実際にあったものです。
そして、このストーリーから気づいたことは、偏見というものは「結果があったらその理由を探す」という人間の思考のクセが生むのではないかと。

交通事故があったと(いう結果にあたる部分の情報を)聞いたらその理由となりうる情報の価値が高まる。だから「理由になりそうな情報」をみんな求めるし、情報に近い側はそれを提供しようとする。
「結果」と「その理由になりそうな情報」が納得いくものであれば、それが事実かどうかとは関係なくセットとなってあっという間に広がっていく。これが偏見や差別や流言やデマが広まっていくシステムですよね。

この流れで本当に怖いのは「結果が見えたらその理由を探す」というのは人間の知性の証拠であり、知性そのものでもあるんですよね。
「状況から考えて多分こうだろう」と類推するのはアナロジー思考といわれるものです。アナロジーとは異なる状況の事例や概念を別な状況にあてはめて考える「類推」を意味する言葉であり、未知の状況への対応やイノベーション創出の源泉です。
アナロジー思考がなければ、「詳しくはわからないけどきっとできる」という考え方も生まれにくいですし、僕自身、過去にやってきたチャレンジ、例えば公務員を辞めて起業するというような大きな不安を宿す挑戦には踏み出せなかったと思います。

でも同時にこれが、人種差別とか(海外ではコロナ禍でアジア人差別が増えているという報道も目立ちますが)様々なよくない現象の原因にもなっている。

僕自身が上記の事例から気づいたのは「本当にそうか?」と自分自身に一度問い直すことの重要性です。この「一度自分の考えを疑ってみる考え方」をクリティカル・シンキングと呼びます。批判的思考とも呼ばれますが、どちらかというと僕は「検証的思考」かなと思っています。

自分の考えが本当に正しいのか、一度ニュートラルに検証しようと見直してみる。そうすることで既存の情報やその意義が洗い直されて、従来持っていた考え方がより良い方向へ修正され、自分自身をより善き方向へ誘うことができる。
実際、この記事自体が僕自身の偏見を修正するプロセスを記したものでもあります。

アナロジー思考とクリティカルシンキング、この2つの考え方を常に意識して、仕事も子育ても、あるいは様々な方々とのコミュニケーション、そして次なるチャレンジもやっていきたいなと思います。

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最後までお読みいただきありがとうございます。
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