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本当の癒し

この1年、乳ガンは進行せず癒されていたと思っていたが、まさかの再度の生検になってしまった。1週間後、生検の結果の診察に友人が付き添ってくれることになった。診察室の廊下で友人を待っていると、私の主治医が年配の患者さんを励ましていた。それは、医師の意外な一面だった。


友人が来て、共にお祈りをしていると診察室に呼ばれた。診察室には、主治医と若手医師、私と友人。細胞検査の結果は、浸潤癌だった。若手医師が、紙に書きながら丁寧に説明してくれた。浸潤癌だが、このタイプはホルモン治療が効くタイプで、乳ガンで最も多いタイプとのことだった。ただし、ホルモン治療は、手術をせずに受けることはできず、手術後にホルモン治療を受けなければならないと言われた。癌の悪性を示すグレードは「1」で、最も悪いスコアは「3」なので、「1」は、所謂大人しい癌ということだった。それを聞いて私は安心すると共に、やはり手術はしたくないと思った。私は、医師に今回の浸潤した箇所は、前回の生検で非浸潤が見つかったところと少し場所がずれているのは何故か、非浸潤が浸潤したのか聞いた。すると医師は、非浸潤が浸潤したのではなく、非浸潤の部分としたの部分があったのだと言った。ということは、やはり非浸潤が進行して浸潤したわけではなかった。


先生は、今まで以上になんとか私に手術をさせようと説得したが、私が乗り気でないのを察し、今は再建もできるようになったので、まずは整形外科で再建の話を聞いてみてはどうか勧めた。私は、再建がどうのではなく、胸を全摘するのがいやなのだと言った。私は、年齢的にもこのまま経過を見ることができないか尋ねると、先生は私の質問の意図を察し、生理のあるなしは乳ガンには関係ないと言った。


私は、先生達と友人に、女性としてもし自分が癌だったら、全摘できるか聞いた。皆、黙っていた。私は、医師に私のように手術を拒む患者はいないのか聞いた。すると医師は、そういう人は100人に1人だと言った。中には、手術をせず、自分の信じる治療をすると病院を出て行く人もいるという。しかし、私が彼女らと違うのは、検査を受け続けていることだという。医師に、お祈りと薬膳以外の治療は何を考えているのか聞かれた。何もない。ただ、神の癒しを信じて祈り養生するのみだ。


私は、辛抱強く私に付き合ってくれている医師に申し訳ないと思った。医師に心から感謝を伝え、手術をしたくないが、引き続き様子を見てくれないかお願いした。医師は、このまま引き続き診てくださると約束し、私を見捨てないと言ってくれた。そして、1ヶ月後に次の診察の予約を入れてくれた。


この診察の前日は、1日断食をしてお祈りしていた。夜、同僚のクリスチャンの友人が久しぶりにメッセージをくれた。以前は一緒に仕事をしていたので、良くお祈りしていたが、テレワークになり、1月から彼女とは話していなかった。私は、初めて彼女に実は自分が乳ガンであることを打ち明けた。彼女は、私が乳ガンを宣告された昨年の夏に、共に仕事をしていた頃を思い出し驚いていたが、私を励まし、癒しの牧師のメッセージや祈りのメッセージを送ってくれた。不思議なタイミングで、少し疎遠になっていた彼女との関係が癒された。


また、姉については、以前は執拗に私に手術を勧めていたが、今回は私に寄り添い、共に癒しを信じて祈り、励ましてくれた。医師が私に言った「祈りも薬膳も聞かれなかったですね。」という言葉について、患者が信じて頑張っていることに対し、そのようなき言葉を発したことについて憤りを感じると共に、私の医師に対する態度が敵対していなかったか指摘してくれた。それによって私は心を改め、医師に対して謙虚になり、感謝を伝えることができ、医師は、私を見捨てないとまで言ってくれた。私と姉の関係も癒された。


診察後、今回付き添ってくれた友人とお茶をした。彼女は、数年前にお母様を癌で亡くしていた。誰もが手術をしないで、癌が癒されることを願っている。私の友人でも、家族を癌で亡くしている人や、乳ガン手術をした人は私について複雑な思いを持っていることは感じていた。彼女は、お母様を失った辛さ、私が手術をしないことに理解を示せなかったことについて、人それぞれの選択であることを理解し、謝ってくれた。私達は、お互い心の内を話し癒された。


癒しとは、癌が癒されることだけでなく、人との関係や心の癒し、日々生かされていること、今までどれだけ主が癒してくださったか、気がつくことだと思った。

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