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読書とは優雅なもの。

 まわりを見渡してみても,そんな人をほとんど見かけないんですが,本をスマートフォンのアプリで読む人ってどのくらいいるんでしょうね。やっぱり年々増えているんでしょうか。
 個人的には,音楽はスポティファイやアマゾン・ミュージックで聴く,という機会がすっかり増えてしまった。前回の記事で言っていたことと矛盾するかもしれませんが,無制限に聴けるというのは,お試し感覚として,あるいはただ空間を彩るものとして流している分には大変魅力的に思えます。電子音楽とかはそういった最新のテクノロジーで聴くのがあっている気もしますしね。
 けれど,古い考えかもしれないけれど,本はやっぱり紙でないと,と思っている自分がいます。幼い頃からそういった生活をしてきて,すっかりそれが身体に染みついているから,手っ取り早いというのもあるのでしょう。
 休日の午前中に,あるいは平日の寝る前に,一冊の紙のかたまりを手に取ってごろりと寝転がり,そこに挟んである栞のページを開くところから,日常とはべつの時間の流れが発生する。もちろん傍らには淹れたての珈琲。
 それってなんていうか,すごく優雅な時間の使い方のような気がするんです。もし仮にそれがスマートフォンやタブレット端末だったりしたら,そんなことは感じないかもしれません。どちらの行為も身体的と呼べるだろうし,書いてあることは同じなんですが,気分の問題なんでしょうか。
 あの端末から放たれる青白い光,ブルー・ライトというやつですが,あれがよくないのかもしれません。あの光はレースのカーテン越しに入ってくる陽光の心地よさとは違って,なんて言えばいいんだろう,人を急かしてくる気がします。
 本を読むという行為が優雅なものであると考える自分には,あの人工的な光を受けながら行う読書が,ただの情報収集に感じられてしまう。そういえばさっきの音楽についても,そんな感じなのかも。だからサブスクリプションで聴けるにも関わらず,CDやレコードに戻っていく人も増えていますよね。
 趣味というのは優雅なもの。だから紙の質感を感じながらページをめくり,ただそこに印字されている文字を頼りに,自分ではない誰かの時間を味わいたいです。時に冷めてしまった珈琲を口に含み,時に鉛筆で線など引きながら。

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