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50才からの日払いバイトライフ

前口上


食えていない漫才師として現在、アプリでの日払いバイトで食いつないでいます。
とはいえ先週、一般企業への派遣就労が決まり、本当はそれだけで食えるのですが、最初の給料が出るまではやはりかせがねばならず、昨日も一昨日も就労でした。
もうよわい58才の自分としては、引っ越しや運搬などの力仕事は当初体力面が心配でした。それもそうだが、学生など若い奴らの中に入ってオッサンが阻害・迫害されるのではないかとの懸念も小さくなかった。
しかしそんな懸念も杞憂で「誰もそんな事を気にしていない」という体で、日払いライフを楽しんでいます。いや、実際「日払いバイト」は固有の楽しさがあります。

日払い派遣の源流と発展


そもそもこの「日払い派遣」というのもややグレーゾーンではあるのだが、1980年代のバブル期に大西幸四郎という人物が始めたカテゴリーだった。

バブル期は住宅の建築ラッシュでもあり、元々は職人が材料を現場に運び込んで仕事をしていたのだが、現場を掛け持ちするようになると「材料だけでも誰か事前に運び込んでもらえると助かる」と言い出し、そこに目をつけたのだった。当初は内装用の石膏ボードの間配りから始まった。その業務を自身の名前から「株式会社ビッグウエスト」とし当時学生だった大西氏がやはり主に学生中心に登録制とし、金のない学生に「日払いバイト」として訴求した。「日払い」と言っても事務所で金を受け取るシステムで、現場で金を渡すような手間も省けスマートで客側からしても助かる。———そんなところから同じ建築現場で間配りされるキッチンやトイレ・洗面・バスまわりにも発展し、これらは一面物流でもあるので、営業をかけ、民家の引っ越し、事務所移転も繁忙期だけ人員が必要な業態でも歓迎され、メイン社名も「株式会社ラインナップ」とし、カテゴリごとに物流に特化した「LDS」イベント設営の「アネックス」など、ブランチを増やし東名阪エリアまで手を広げた。インターネットもスマホもない時代にだった。
この時の創業メンバーは事業的には難しくない内容である事からそれぞれ独立し「株式会社フルキャスト(1990年設立、現:株式会社フルキャストホールディングス)」「株式会社グッドウィル(1995年設立、2009会社解散)」やや遅れて「ユニティ株式会社(1992年設立)」とそれぞれが競合会社となった。
なかでもグッドウィルは元々日払いバイト自体が「請負い」を偽装した(当時)グレーゾーンであり、紹介する仕事も危険性が伴うものもあり、決して身ぎれいではない。それなのに拡大の野望を抱き日商岩井から社長を招き、手厳しい社会の洗礼を浴びて消滅した。この業態は前述の事情から事業規模を中規模で留めるのが賢明であるものを東証一部上場を夢見て、無理に拙速に進めてしまったのが失敗だったと思う。私は20代の終わりを日払い登録派遣バイトの立場から最後は株式会社ラインナップの社員として過ごしたのだった。その後もこのビジネスモデルは日払い分の原資さえ用意できれば誰にでも会社をつくることができるので雨後の竹の子の如く増え続けた。

それが今になって、スマホの時代に蘇ったのは感慨深い。内部者として、あの頃SMSやLINE、GoogleMapがあればどれだけ社として便利だっただろうかと思う。

作家西村賢太が広めた「港湾作業員」の実態

私はわりと最近西村賢太氏の著作に触れるようになった。彼が亡くなる少し前だった。作品中には懐かしい港湾作業の現場が描写されている。この領域は結局物流全般にまで及ぶため、倉庫内作業もある。トレーラーが海上輸送用の20〜40フィートのコンテナを積み、倉庫のプラットフォームに着く。そこにはタイヤやカーペット、輸入家具が満載されていてそれを人力でパレットに積み替える。そんな仕事が基本で、例えば東和リースという会社の仕事は指定の倉庫前に集合し、バンで分乗して現場に向かう。これは後に「二重派遣問題」が発覚し問題になった。リンク先にはこの界隈の「グレーゾーンの実態」がわかりやすく記されている。そしてこの仕事もほとぼりが冷めた頃また再開したはずだ。実際自分が行った時も貨物船のクレーンで次々に降ろされる直径3mはある丸太の留め木を置いて回る仕事で、事前に脚絆(ゲートル)を渡される。そして「材木が崩れたら直ぐに逃げて」と言われる。脚絆はズボンの裾を踏んで転ぶ事がないように、というものだが、「いやいや、これ間違ったら大怪我か死ぬよね」とビビった。確かにこんな仕事を日払いの「その日限りの人工にんく」にやらせるのは無茶だ。ここの仕事では東和リースの直バイトで、すごく俺によくしてくれた両腕(当時はまだめずらしかった)に刺青が入ったロックのお兄さんがいて、翌週見かけないので尋ねると「船の甲板から落下して死んだ」と聞かされた。その後も別の直バイトが亡くなったとも聞いた。命の価値を低く感じてしまう現場だった。


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