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いろんな人生があった(神田真直の場合)

はじめまして、神田真直と申します。今回は経歴に収まらない、あるいは本来書くべきではない、自分の話をしてみたいと思います。長くなります。覚悟してください。そう言ってはみたものの、書く時間と読む時間はまったく比例しないので、人によっては、大した文字数でもないかもしれません。小生も皆さんと同じように、いろいろなことを考えながら生きてきました。誰にだって人生があって、その一番先頭に作品があるわけです。もうすぐ90歳になる祖母が口癖のように「いろんな人生があったなあ」とよく言います。まだ30歳手前ですが、振り返るといろいろありました。果たして、まとまった文章で、書ききれるのでしょうか・・・・・・

皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀が行われたのと同じ月、1993年6月に小生は生まれた。終焉と混沌に挟まれた年である。1989年には昭和天皇が崩御し、やがてバブルが崩壊した。地下鉄サリン事件が起きる1995年1月、阪神淡路大震災が発生。当時1歳だった小生は伊丹市で被災した。もちろん、記憶は全くない。衝撃的な体験であるはずだが、小生は何も覚えていない。この身体的記憶の欠如との向き合いは、ある時期から小生の演劇的主題の一つになった。震災後、小生は沖縄に引っ越すことになる。ここでも、身体的記憶の欠如が浮かぶ。いろいろな話を聞いたり、いろいろな場所に行ったりしたけれども、もちろん幼い小生には何も意味がわからない。ようやくこのあたりから身体的記憶が浮かんでくる。友達との遊びを中断する大きな飛行機の音。建設中のモノレール。台風の風で弓なりに曲がった大きな木。米軍基地での米兵との交流。そして小生は、青く澄んでいない海では泳げないと思い込むようになる。

住んでいた団地の上の階に、ピアノ教室があり、そこで1、2年だけピアノをやった。その後大阪府高槻市に引っ越してきたときに、ピアノの継続は断固拒否した。これが人生で最初の後悔である。あのとき、ピアノを続けていれば小生の感性はもっと豊かだっただろう。当節の小生には音楽という趣味がとてもダサいものだと感じていた。理由はわからない。先生が厳しくて怖かったみたいな記憶もない。ただ、嫌だった。

同様に、沖縄時代から通わされていた公文式も断固拒否したが、そちらは認めてもらえなかった。その後、小学生の頃にもう一度公文式を辞めて学習塾に通うことを提案したが、中学入学までは公文式を続けることにされた。小生が通っていた小学校は中学受験する者が多い。彼らとの学力の差は歴然としていた。公文式ではいつも泣きながら努力しているのに、この努力が無意味に感じられた。当時の公文式では、学校より先回りした内容を教える「先学」が推奨されていた。だから、少しだけ優越性を獲得できる。算数ではひたすら、計算問題をやらされる。言うまでもないことだが、この学習方法は、子どもに無用なプライドを植え付けるだけで、真の学力向上には決して結びつけない。自分はバカよりは賢いが、賢いやつよりはバカだという自意識がここで芽生える。本当は、ただズルをしているだけなのに。小学校3年生の頃には野球を始めたが、この野球も辛い思い出でしかない。練習は楽しかったが、試合ではほとんど勝てなかった。それも惜しい負けではなく、コールド負けばかりの地獄が3年続く。この体験は、「どうせ頑張ったって無駄だ」という諦観のようなものを植え付けた。小学生の頃は生きた心地がしなかった。努力、友情、勝利というジャンプ三大要素のうち、2つが欠如した子ども時代を送った小学生は、中学生になってスレた感性で物を見るようになる。

この諦観も、自意識も、ゼロ代的なものではないだろうか。中学以降も、高校受験に失敗し、大学受験に失敗し、浪人しても失敗し、一切の「成功体験」というものを得ることなく生きてきた。何もかもが失われた、この時代では、希望的なことや前向きなことを言うと必ず否定される。追い打ちをかけるように、データが否定を裏付けする。データに基づかないもの、主観的なものに対しては、「宗教」という術語があてがわれる。「宗教」という烙印。子どもにとって信じられるのは学歴や部活動での成功だけで、大人にとって信じられるのは、経済的成功だけであった。そのような時代を反映しているのか、ゼロ年代の歌は軽薄なもので溢れかえった。文化・芸術は、政治・経済から逃げていく。RADWIMPSを聞いていた。のちに、政治的なことを言ってみるようになるこのバンドのボーカルだが、彼は今も昔も軽薄であるから、今は聞くに堪えない歌を垂れ流す。軽薄さは、宗教的ではないという安寧であるとともに、苛烈な競争からの逃げ口としても役立った。

ちなみに、RADWIMPSのあとには、マキシマム・ザ・ホルモンを聴くようになる。この二つのバンドには小生の中学時代の思い出が詰まっている。特にホルモンはコピーバンドをやったので、今でも聴くと思い出が蘇る。そして、それが音楽的に過去のものでしかないということも強く感じる。どちらのバンドも、後にその軽薄さのために炎上した。

2011年の震災。軽薄なままではいられないということを多くの人が知る。ところが、「身体的なもの」を含めて何もかも失ったために、元の時代のような体験に回帰することは困難である。誰でもわかる、数値的成功しか残されていなかった。しかし、誰でもわかるものは客観的なもののことであり、客観的なものとは、人間的なものではない。
「今日、イラクでアメリカ兵が十七名死亡と報じられた。この数字が〈わかりやすさ〉の原資とされている。しかし、イラク人の死者は数ともならぬ、この数字はなんの〈わかりやすさ〉なのか」(太田省吾「劇場と貧困なる経験」『舞台芸術』第5巻、月曜社、2004年、4頁)
時代的軽薄さからの脱却できるもの(この裏には、ゼロ年代的嘲笑がある)。それでいて、スポーツや受験勉強のような苛烈な競争にも参加しないでいられるもの。他者から脅かされえない何か。大学に入ってから、小生は文化的な営みを求めるようになった。結局小生が飛びついたのは、「演劇」という宗教である。ところで、高校生から続けていたバンドも、大学では同時進行で継続した。大学のあいだは、大学でもトップクラスに厳しいゼミに入り(課題レポートの量とその求められる質が尋常じゃない)、軽音サークルでも活動しつつ、学生劇団(第三劇場)で年7回くらいの公演で出演したり、演出したり、舞台監督をしてみたり、音響をしてみたり、そのすべてを兼ねたりしていた。大学生活をフルスイングで楽しんだといえるだろう。テキスト上では、陰鬱な感じに見えるかもしれないが、小生は実際には高校・大学と結構エンジョイしてきた。大学では教員も含めていろんな人と交流ができたし、恋愛もしたし、バイトもしたし、浪人もしたし、留年もしたので、留学しなかったことおよび語学をちゃんと身に着けなかったことを除けば後悔などしようがない。就活は2回したが、どうにもモチベーションを維持することができず、諦めた。自分がどう生きていきたいのかちゃんと考えられていない者、あるいは自分の人生について無批判なままでいても平気な者でないと就職活動は難しい。大学時代に中途半端に頭だけよくなってしまうと、社会との距離感を見誤るリスクだけが上がる。ウジウジものを考えていたら、二つのパチンコ屋で計3年も働いて過ごしていた。

さて、第三劇場(サンゲキ)では、たくさんのことを学んだ。もちろん、一般的な舞台芸術の現場では、間違っているかもしれない学びもある。さらに、人的リソースを無尽蔵に使い込めるという異常な環境であった。公演の費用はみんなで出し合う。お金のことを、真剣に考えなくて済む最後の日々だった。最も純粋な創作活動だったといえるかもしれない。集団創作である限り、演劇は個人にとって純粋なものにはなりえない。人間関係も重要である。暴力的、権威主義的統治には限界があることもすぐにわかる。信頼しあうことは難しく、脆い。何かを創らなければならないという、わけがわからない切迫した心理だけが確かにあった。公演ごとに詳しく思い出を書き込んでいってもいいが、40公演くらいあるので、さすがにやめておく。

2014年。プロデュース公演という名目で、劇団なかゆびは第1回目の公演を敢行した。大学に籍を置く学生劇団は、ところによるかもしれないが、概ね3年で人が完全に入れ替わる。途中から入る人も少なくないので、今回が初舞台、初参加という人がいることも多い。自分たちだってまだ1、2年程度の期間しか携わっていないのに、いろいろなことを偉そうに教えつつ、全体を俯瞰できるようになった頃には引退・卒業する。そして、「踏ん切りがつかない」もしくは「自分には才能があるとか思いあがった」連中が卒業後も演劇を続けることになる。同志社大学の学生劇団出身だと、マキノノゾミさんやキムラ緑子さん、深津篤史さん、そしてヨーロッパ企画の面々の人たちがいる。そういえば、吉岡里帆さんも新町別館小ホールの空気を吸ったことがあるとか。キムラ緑子さんは、小生が所属していた頃に、A-Studioかなんかの取材でADさんがアポなしできた。丁度、通し稽古の直前だったので、なんとなく倉庫などを案内した。放送はされなかったみたいだ。吉岡里帆さんは学生演劇祭の応援コメントをくれた。一言でももらえたらと思っていたが、すごく長くて心のこもったメッセージをいただいた。届かないと思うけどありがとうございます。

2016年。全うな判断力のある学生は演劇を続けない。多くの同級生、先輩、後輩が宗教「演劇」から脱会していくなかで、小生は居残った。大学の稽古場は後輩に明け渡し、居場所がもうないので、友人に頼んで京都学生演劇祭に出場することにする。このときから突然「無尽蔵な人的リソース」が消える。このあたりから演劇を、「舞台芸術」と少しずつ言い換えて、いろいろなことを学ぶのだが、実践するためのリソースが全くないという問題が立ちはだかる。過去の学生劇団上がりの面々の軌跡はまったく参考にならない。彼らは、旧世代の遺産を食いつぶすことでやり過ごしたにすぎない。80年代に若手と呼ばれた連中に対する憎悪が小生のなかに生まれたのはこのあたりだと思う。不勉強なのものあって、対象はぼんやりとしていたが、学べば学ぶほど、消費主義的な「物量演劇」にすぎないと思った。文化的な公害というものがあるのだとするならば、汚染水を垂れ流したのは、この時代の劇場だろうと考えていた。さらに、このころから以下のような、仮説を立てるようになる。

新劇から岡田利規の登場あたりに至るまでの教科書的な日本の近代演劇史を、小生は「若者の身体感覚の変遷史」と捉えることがある。若者の人口が多かった時代は、若者が若者の素直な身体感覚で作品を作ることが何よりも是とされた。若者が若者自身を評価することで、その時代の劇場は回る。ところが、第三次ベビーブームが起きなかった。日本は少子高齢化社会に移行する。従って、かつてのように若者だけで劇場を回すことは困難になった。若者の身体感覚で演劇を作ることによって得られるメリットはあまりない。それどころか、活動を継続することすら難しい。そうだとするならば、今、重要なのは、自分も含めた若者(=同世代)から評価されるということの優先順位を下げ、賞レースといった権威的なものを優先したほうが得策なのではないか。

今でもあまりこの仮説に対して、小生は否定的ではない。集客では、基本的に高年齢層を重視してきた。戯曲も、古いものを愛した。少しずつだけれども、うまく行きかけている。あるとき、学生演劇祭にかかわったあるプロデューサーが、学生演劇の担い手たちは、演劇を辞めた後も観客になるのではないかという楽観的な物言いをしていたが、若者の人生はそれほど甘くないし、観劇が魅力的な体験を提供できているとも思えない。鴻上尚史もやはりどこかの戯曲のあとがきで、自らの「楽観」について言及していた。ほんとうに腹立たしいばかりである。あえてポジティヴな言い方をしてみるのなら、我々のほうが彼らより賢いのかもしれない。「なんとかなるだろう」という楽観から「どうにもならない」という嘲笑へ。そして「どうにもならない」嘲笑から「なんとかしてみせる」決意への跳躍を志す。「先駆的決意性」などではない。

ところで、賞レースについては、いたるところで審査員側と候補者側でディスコミュニケーションが発生しているような印象を受ける。ここには哲学的難問があるから仕方がない。賞とは漏れなく権威だから、審査員は過去に評価された人物が選ばれる。ところが、革新innovation的な形式とは過去になかったもののことを意味するから、過去の尺度となった人物からは最も遠い場所にある。旧世代では理解できないものが、新世代において高く評価されること。これが文化的革新であるとするならば、旧世代が、新世代を理解し、評価することは土台無理なのである。小生の見るところでは、近年の演劇界は、旧世代と新世代の不気味な妥協によって維持されている。旧世代が「お墨付き」を与え、新世代の一部が薄給やハラスメントに耐える。嘆かわしいことに、ハラスメントの被害者たちは卑劣で狡猾な新世代たちが、野蛮な旧世代に献じた生贄だったのである。

2016年以降、このように現状を概観していた小生は、いくつかの賞レースに参加しつつも、それ以外の場で上の世代と関わることに消極的だった。不気味な妥協に加担したくなかったのである。もちろん生贄を要求せず、薄給で搾取もしない、人格者の先輩も多数いるだろう。しかし、そのような先達を探す労力を惜しんでしまった。劇場にもあまり行かなくなってしまった。学生時代のように、劇場が日常だった頃が懐かしい。

2018年3月にゲーテ(森鴎外訳)『ファウスト』(吉田寮食堂)が学生生活最後の作品となった。卒業論文のようなものだったと言ってもいい。バンド隊を組んで生演奏での上演ができたのは奇跡である。いつしかこの環境を取り戻したい。そしてこのとき、翻訳の言葉の面白さに出会い、古典への関心を高めることになる。また2018年6月にgate#15という企画で上演したオニール『蜘蛛の巣』(アートコミュニティスペースKAIKA)は、「演出」という職能を本格的に意識するキッカケになった。2018年7月には、俳優として野村眞人演出、三好十郎作『冒した者』に出演。同作は、利賀演劇人コンクール2018優秀演出家賞受賞作だったのだが、このときの体験も「演出」への関心を一層根強くした。自分もぜひ、ということで、2019年5月に同じコンクールの一次上演審査に参加したが、ここでは惨敗した。考えられること、できることすべてを整えて臨んだだけに、あらゆる感情が渦巻いた。そして、この体験をキッカケに近代戯曲、古典戯曲というものに執着するようになった。この執着は、今もなお130週間以上継続されている「劇団なかゆび戯曲研究会」の原点になったものである。ほとんど読書の習慣がなかった自分には教養が欠如しているという自覚があるので、とにかく、戯曲を読みまくることにした。

遡って2019年1月。劇場を、ただの箱でしかないというように感じ始めた頃から、作品の軸が抜けていく。中心になければならないものが排除され、ただあるのかないのかわからないような作品を浮かばせるようになった。演出上の「人間的な揺らぎ」の排除。これは、無人劇「から」で極地に至った。ここから少しずつ、人間的なるものを取り戻そうと舞台上にいる人間を一人ずつ増やしていくことになる。2019年3月「いない」は、ラディゲの死から絶望のどん底に落ち、アヘン中毒になったコクトーが復帰して間もない頃に書いた一人芝居『声』を短い現代劇に翻案し、その一年後、2020年3月の「さよなら、を言い忘れた」では、「から」と「いない」を再演し、三つ目の二人芝居「i」ではソクラテス=プラトンを呼び出し、対話を取り戻そうとした。劇場に戻らねばならない。今挙げた作品はどれも、劇場とは言い難い場所で発表した。どれもあくまでも「劇場ではない場所を劇場と思い込んで使った」にすぎない。劇場はまだまだ遠かった。

また少し戻って、2020年2月。世界中がコロナ禍に見舞われる直前のこと。久々に名古屋の劇場で作品を発表した。全国学生演劇祭のエキシビジョン枠というもので、過去に賞を受賞した学生が先輩風を吹かせ、現状を見せびらかす場である。この作品は、映像でも公開されている。
「あなたは、大韓民国、もしくは中華人民共和国出身ですか?」
「はい。大韓民国から来ました」
すると、出身を聞いた面接官役の俳優がポケットからマスクを取り出して、着用する。これが会場を笑いに包んだ。まだコロナを対岸の火事と思い込んでいた日本の空気そのものだったと思う。これが審査員数名から高く評価された。劇場に希望らしきものが見えたところだった。なお、このマスクをつける演出は、本番直前に俳優たちが提案したものである。ありがとう。2020年4月16日。小生の住む京都も含めた全国が緊急事態宣言の対象となった。ところが、劇場から足が遠のいてしまっていた小生は、「ほとんど存在しないも同然になっていた場所」だったから、不思議と絶望はしていなかった。不謹慎に思われるかもしれないが、それが正直な感覚だった。

2020年10月。豊岡市で開催された演劇人コンクール2020の最終上演審査に進出した。あまりに久しぶりの劇場での作品発表だった。観客は、審査員やコンクール参加者だけ。緊張感はあまりなかったように思う。「劇的」という形容詞に示されるような、熱気はあまりなかった。ただ、作品があるだけ。ゲネプロのような雰囲気。作品はつつがなく発表された。慣れない仮面での演技をせよという小生の暴力的な要求に、俳優たちは全身全霊で応えてくれた。しかし、まだこの作品は演劇になっていない。そう感じたのも事実である。無人劇からかなり時間がかかった。独白の一人芝居、対話の二人芝居、無観客の三人芝居。ようやく、劇場が有機的な場所に見えてきたところである。

幸運にも、個人的にはコロナ禍によって壊滅的な打撃を受けたりすることはなかった。公演が一つ中止になったが、1年後には再演にありつけた。2020年は、2月に名古屋、3月に京都、9月に京都、10月に豊岡、12月に京都、2021年は3月に京都、横浜、4月に京都、(8月の京都が中止になった)、2022年は1月に京都、5月にまた京都、9月にまたまた京都と、たくさん作品を発表する場を得ることができた。劇団単体でもかなり活動したほうだと思う。もちろん、これ以外にも公募やらに落ちたためにたくさんの企画が消えている。もし、あの企画が通っていたらと思うとゾッとする瞬間もある。

社会的にも、個人的にも、劇団的にも、遅々として進まないながらも少しずつ新しい生活がつくられつつある。あらゆる意味で、劇場に戻ってくることができるのかもしれない。しかし、劇場はあまりにも遠くなってしまった。劇場で本格的に仕事をするということから距離を取ってきたために、どうも演劇や劇場にまつわる議論に身を入れることができない。戯曲だけを読む日々が続いてしまった。わざわざ劇場に向かう理由がわからなくなってしまった。戯曲があれば、あとは想像力で何もかも賄える。むしろ、それを具体的に上演にしようとした瞬間に現実の金銭的問題と否応なく向き合わされることになる。それは楽しくないことである。メモだけ残して、また戯曲に戻ってくる。寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」に対して、唐十郎が「町へ出たってなんにもないじゃないか」と屁理屈を言った。当時の町に、「なんにもなかった」のかどうかはわからない。今は少なくとも、慢性的貧困がある。経済が建て直らない。何かを打ち立てるようとすることに対して、立ちはだかる悲しい現実がある。それでも、やっとの思いで、劇場へ帰り、劇場の観客のところまであと一歩というところまできた。どんなやり取りが待っているのか。

そして来る2022年10月。久方ぶりの単独での劇場公演である。こんな文章を最後まで読んでくれたそこのアナタ。是非、対話をしにきてほしい。

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