みんなちがって、みんなわるい/地獄とは、他人のことである

物語に触れるとき、とくに演劇に触れるとき、人間の善性を信じている作品があまりに多いことに驚く。やはり、インテリ/左派/リベラルの流れを汲むだけあって、世間知らずで、悪人の悪意に晒されたことなどまったくないのだろうか。あるいは日常のなかで、憎悪や偏見に触れすぎてせめて舞台だけでもいい人ばかりの世界にしておきたいのだろうか。いずれにしても、リアリティに欠けることには変わりない。

小生は徹頭徹尾、「人間」を信用していない。それは作品の内容においても、形式においても、そして創作に向かう姿勢においても、変わらない部分である。もちろん、信用したくなくても信用しなければどうにもならない部分があるから、一定程度妥協してきた。そのたびに後悔することになる。その責任はその折々で決断した自分にあるのだけれども、やはり俳優もスタッフも劇団員も、信用しすぎてはならないが、委ねなくては何も進まないのも事実である。

例えば俳優たちの「信頼できる座組!」「最高のチーム!」的なツイートを見ると、身構えてしまう。もっといえば観に行く気すらなくなる。思ってもないことを言えるというのは、俳優の技術のなかで重要なものの一つであるということは重々承知しているし、ほんとうのことを言っている場合もある。自分の理想では、全員が自分のやっていることが正しいのか、間違っているのか、つねに不安を抱えながら半信半疑でいてほしい。無論、創作過程における暴力は排除しなければならないけれども、精神的、思想的な段階において、公演企画に全面的に賛同するのではなく、失敗の可能性もあるし、成功の可能性もある、それは上演するまでわからないという数少ない絶対真理だけを握りしめていてほしい。それは作り手だけではなく、観客に対しても同じである。そもそも絶対に面白いものを観に行って、予想通り問題なく面白かったら、つまらない時間を過ごしたということになる。自分の意見が変わる、自分の予想が裏切られる可能性があることに、身を委ねるべきであり、それがある程度形式に慣れた段階で、芸術作品に触れることの意味である。

当然のことであるが、作品について人と話すことも重要である。これを当然のことであると理解しつつも、小生はあまり好きではない。ほとんどの人間が自分の意見が変わることへの恐怖と希望に対する備えができていないと感じるからである。結局、意見を交換した気分になるだけで、何一つやりとりができたと実感した試しがない。人と話すときは、自分の意見が変わる前提で話すように心がけている。そうでなければ、他人と触れあう意味がないからである。小生自身も、自分が変わることの不快さにたえかえねて、結局閉じこもってしまうことがよくあるので、どうにかしてこじ開けて行かなければならないと強く念じてはいるけれども、なかなか思うような状況を作り出すことはできていない。

セクハラ・パワハラの横行が明らかになったことに対する反動として、「安心・安全な環境づくり」に多くの若手クリエイターが努めている。けれども、絶対の安心も絶対の安全も、絶対に存在しないということは必ず念頭に置かなければならない。人間は誰でも、口があればいつでも暴言を吐くことができるし、手か足を動かすことができるなら、いつでも暴力をふるうことができる。他者と同じ空間にいること、他者と関係を持つことはそれ自体がたいへん危険なことなのである。不安はどこまでも際限なく増幅させることができるので、完全な対策は不可能である。だから、最終的には「どこで諦めるか」を決めること、そして「素早い初期対応」を想定するほかにない。

他人を信用しないというネガティヴなところからはじめてしまうと、何かを決断するときも、このように「諦める」というネガティヴな姿勢にならざるをえない。これが最近の気づきである。このまま永遠にペシミスティックなやり方しかできないのだろうかと思う。

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