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音楽への没入(2023年8月30日)

生活が落ち着いたので、以前の記事を読んだ友人からの疑問について考える。

①西洋音楽は理論を固めて作られているので、言語的側面が大きいのではないか。

音楽理論=言語という側面は多分にある。だからこそ、即興音楽は音楽理論を無視した完全な(?)感覚的芸術であり、言語化というプロセスを経ないのだと思われる。

しかし、音楽理論に基づいて作曲された曲を演奏することにも、言語化プロセスを経ない表現ができるとも思っている。以下、詳細に。

音楽理論は結局「なんか気持ちいい音」がそこにあって、そこに法則性を見出す、帰納的なものだと私は考えている。
音楽理論は、「なんか気持ちいい音」であったものに補助線を引いて言語の世界に「引きずり下ろした」ものでしかない。だから、調性音楽(いわゆる我々が普段耳にするような音楽)にも、非言語的な力をもつ可能性は大いにある。
それこそ、理論という補助線をすべて解体した先の表現。

フルート奏者の熊谷為宏はその著書『演奏のための楽曲分析法』において音楽を形作るプロセスを4つに分けた。
①音を作る技術的な体験
②楽譜を読み取る能力
③それを生きた音楽として精神活動への結びつきを強める力(←これがいわゆる「音楽理論」)
④上記すべてを忘れ音の世界に没頭すること

この④のプロセスこそ、まさに言語的世界の解体。ここに至って、演奏者たちが譜面と睨めっこをしながらうんうん考えていた理論はすべてたち消え、非言語的な感覚世界へと没入していくのではないか。舞台で楽器を演奏した人間なら、一度くらいはこの④プロセスを経験しているはずだ。

ということで、西洋音楽は言語的側面が大きいのではないかという疑問について、私はYesでありNoでもあると思う。

②主客未分とは、國分功一郎のいう「中動態」概念に近いものか

やっべ!中動態の本読んでねえ!確認する!

終わり。②は『中動態の世界』を読んでまた考えます。

井筒俊彦『意識と本質』の精読を再開した。この本はいったい何周したか?多分、ちゃんと最後まで読んだ回数は2回くらい?そろそろ、体系的に「どんな本か」くらい理解できるようにならないと。

2章は本質実在論の立場から、本居宣長、フッサール、リルケ、芭蕉の本質論を追っている。個別的な本質を見る宣長、リルケ。普遍的本質と個別的本質それぞれの見方ができるフッサール。個別的本質と普遍的本質を「融合」する芭蕉。だんだん整理できてきたぞ。

そういえば、この前の演奏会では非言語的な没入体験はできただろうか。

うーん、あんまりかな。指揮という立場は意外と理論から逃げられない。頭をフル回転させてテンポと全体の音量バランスを探り続けていた。あとMCの緊張でそれどころじゃなかった。

だが、とても良い演奏体験だったことは確かだ。


夏が、終わる!

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