複雑に捉えたい【9/25】

久々にまともな日記を。


指揮のはなし

吹奏楽団で指揮をしている。

高校時代は、学生指揮として同期や後輩たちの前で強権的にふるまっていたのだが、今思うとよくそんな真似ができたなあと、高校時代の私の高慢ぶりに感心すら覚えている。

極論を言えば指揮者は、自分の音楽的なイメージを演奏者に対して「押し付ける」行為を行わなければならない。それが私にとっては大変な苦痛を伴う作業である。自分の音楽に対するイメージが正しいはずなどないのにも関わらず、それを伝えなければならない。「ここはこうしましょう」が言えない。「ここはこうしたいと思うのですが、みなさんはどう思いますか?」と言ってしまう。

この振舞は、良い点もあれば悪い点もある。演奏者からすれば「指揮者に全て決められるのは納得がいかない」と思うこともあれば「なんでもいいから共通理解をはかるように指揮者が決めてくれ」と思うことだってある。もっとも正しい振る舞いはおそらく、強制と提案をケースバイケースで使い分けることだろう。未だに私は、強制2、提案8くらいの配分だ。これでは演奏している側も疲れてしまうし、この指揮者についていきたいとは思えなくなってしまうだろうに。

基本的に自信というものは大学時代に使い果たしてしまった。指揮者とは、自分の思考に自信がある者がなるべきだ。久々に指揮台にたちつくづく思う。私は一人のアマチュア指揮者として、音楽的な素養を養うことよりもまず、自信をつけることから始めなくてはならない。

高校時代の高慢ぶりを、少しは思い出したほうが良い。高慢と謙虚のブレンド。そう、吹奏楽らしく、思想すらブレンドさせてしまおう。

文章を書くはなし

またnoteをさぼってしまっていたが、まあいいだろう。

知的な文章を書きたいと常々思っているのだが、自分の書く文章は稚拙だ。思ったことを思ったまま書いており、話し言葉と書き言葉の区別がついていない。

私が尊敬する人の書く文章は、とにかく「書き言葉」として完成されている。話し言葉としては全く成立しないであろうが、文字として読むと美しい。これが「レトリック」なのだろうか(「レトリック」という言葉は歴史的にみてネガティブな表現として多用されるが、私は基本的にポジティブに捉えている。)。

まずは直喩から、少しずつ学んでいこう。

本の話

昇任試験も終わったところで、読書活動を再開させた。

SFは現代を映し出す鏡であるとはよく言われる話だが、『華氏451度』は非常に端的に現代の問題意識が現れていてわかりやすい。

「そして大衆の心をつかむことは、必然的に単純化につながらざるをえない」と、ピーティは、つづけた。

旧訳版93頁

大衆が幸福に生きるためには物事の「単純化」が必要である。これは現在進行形で発生している。SNSは極端な二元論に人を陥れる。大衆は、何かを論じるにあたって「全面的に支持する」か「全面的に支持しない」かの二択を周囲の人間に迫る。「国葬に反対するなら極左暴力集団」という雑誌の記事が上がっていたが、極端な二元論の最たる例。

複雑でわかりづらいものが次第に「悪」となり、単純でわかりやすいものだけが消費されてゆく世界。ブラッドベリはこの延長線上にディストピアを見た。

私は物事を複雑に見てしまう。人間である。だから、音楽についても、一つの意見に絞ることが難しい。一つの解釈に絞るには、根拠が乏しすぎることが多い。複雑な要素が絡み合う音楽の中で、どの立場に立脚して音楽を創っていくかがどうしても判断できない。しかし、この作業に喜びも見出している。なんでも単純に決めてしまうのではもったいない。じっくり考えたうえで、我々の演奏の方向性を決めていきたい。単純化してしまった方が、おそらく演奏者も楽だろう。しかし、私を指揮者にしてしまった以上はそこは諦めてほしい。


今のところ、『華氏451度』は黙示録として有効に作用してしまっている。きっと世界の終末は、単純明快なものだけに囲まれ、脳を一切使わない人間たちが蔓延ることになるだろう。これを止める手立てはあるのだろうか?この小説がいつしか、「そんな未来あるわけないじゃない」と一笑に付されることを願ってやまない。


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