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【求む】拵える遊び

「明日から1ヶ月休みを与えよう。もちろん給料も通常通り支払う」

こんな夢のようなオファーが来たら何をしますか?夢のようなと言ったけれど、普通に会社員をしている人がこの状況を本気で手に入れようと思えばそんなに難しくない。会社を辞めて、有休消化に入りつつ、退職金を手にすれば一時的にではあるがそういう状況を作り出すことはできる。

僕はこれまで2度転職を経験しているのだけれど、転職をすると有休消化とか次の会社の入社日までの猶予期間とかで1ヶ月くらい何もしなくていい時間ができたりする。そういう時間を経験してみると、働いていた時には願いつつも叶わなかった時間の過ごし方ができる。

目覚ましをかけずに寝て、昼前に起きる。丁寧に食事を作ってもいいし、買ってきた菓子パンをかじりながらテレビを見てもいい。本を読んだり映画を見たりゲームをしたりできる。会社に行かなくたっていいんだから、際限なくいつまででもそうしてて良い。夜になったら友人と出かけることもできる。月曜から浴びるほど酒を飲んだって誰にも怒られない。

実際にそういう過ごし方をしてみたことがある人は共感する人も多いと思うのだけど、そういうのって大体1週間やると飽きてしまう。そういう種類の自由を貪るのが好きな人はその限りではないかもしれないが、少なくとも僕は飽きてしまう。

「今の人たちは浴びる遊びばかりで探す遊びをしない」

サカナクションの山口一郎さんがしきりにこれを言うんだけど、初めて転職してまとまって暇な時間を得たときに、この言葉の意味を少し理解した。今の時代は、テレビを見るのも、映画を見るのも音楽を聴くのも、次から次へとレコメンドされたコンテンツへ誘導される。そうじゃなくても、これから浴びようとしているコンテンツがどういうモノなのか先に知ることができてしまう。

きっと、生まれ育った時代背景も関係していると思います。僕が生まれたのは、「探す遊び」の時代です。1980年生まれなんですが、当時はインターネットがまだ今みたいに普及していなかった。情報を手に入れるのにも苦労しました。雑誌を見て情報を得ることが多かったですね。

CDを1枚探すのも大変でした。3000円のアルバムをジャケ買いしたらハズレだった……といったようなこともよくありました。

そうやって手に入れたものを、もったいないから繰り返し聴く。難しいものにこそ何かあるはずだという期待感があったんですね。そうすると、そのうちに不思議と良さがわかってくる。そんな自分に対して高揚感が湧くんですよ(笑)。

僕は「探す遊び」を続けてきたから今の自分があると思っています。いまの20代を見ていると、「探す遊び」の方法を知らず、「浴びる遊び」をしている人が多いように見えます。ちょっと残念ですね。

出典:Forbes Japanのインタビュー記事より

自分がどういうものを好むのかを機械に知られているし、それは多分当たっている。機械の言う通りにしていると楽しい時間が過ごせる世界にあって、わざわざ探す遊びをするのは簡単ではない。ただ、僕自身はそういう時間の過ごし方に1週間で飽きてしまったということは、僕のやりたいことは浴びる遊びではないということなのかもしれない。

じゃあ、探す遊びをすればいいのかというと、情報を手に入れるハードルが極端に下がってしまった現代社会において、それはやはり簡単なことではない。そもそも、80年代に生まれた一郎さんは望んで探す遊びをしていたわけではなく、遊ぶために探すことが必要だったんだから。

そこで少し考えて、僕は拵える(こしらえる)遊びにチャレンジすることにした。

拵える遊びというのは、書いたり、描いたり、伝えたりしながら作ることをあそびと捉えるということで、拵えられるものには極力なんでも自分でチャレンジしてみる。その中に今やっているnoteで書くことも含まれているし、noteのヘッダー画像を作ることも含まれている。

85歳になる祖母が田舎の一軒家に1人で住んでいて、たまに顔を出したりすると嬉しそうに色々話してくれる。まだまだ頭も身体もしっかりしているんだけど、退屈に悩まされているらしい。「本とか映画とかいくらでもあるじゃん。Netflixとか契約するのは?」とか話すと、「歳とってくると細かい字を読むのも、画面をみるのも疲れるんだよ」とのこと。感覚を受け取る器官が弱ってくると、探すことはおろか浴びることも難しくなってくるのかと思った。

じゃあ何してるのかと聞くと、元気な日は散歩したり買い物に行ったりするのと、裁縫が好きだから自分の死装束を作っているんだと。そりゃばあちゃんも歳だからそういうことが頭にないことはないけど、本人の口からそんな言葉が出てくるのってどんなふうにリアクションして良いのか分からない。目が疲れたりしんどくなるから、毎日少しずつしか作れないけど、代わり映えのない毎日の中に、小さな達成があるのは悪くないのだとか。

そういう話を聞いて、「なるほど拵える遊びか」となった。拵えるという目的があると時間の使い先が一つ増えるし、探す遊びも浴びる遊びも機械のレコメンドだけでなく、拵えることに関連づけて主体的に出会うものを決めることができる。とは言っても、今の自分に打ち込めるような"拵えたいモノ"は今のところ思い当たらない。だからこそ、書くのも、描くのも、歌うのも、踊るのも、なんだってやってみる。そしてそれを学びながら我慢強く続けてみることを近頃自分に課している。

自分にとって何がとりわさらわれの対象であるのかはすぐには分からない。そして、思考したくないのが人間である以上、そうした対象を本人が斥けていることも十分に考えられる。
しかし、世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物であること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

『暇と退屈の倫理学』/ 國分 功一郎

本当は長生きなんかしたくなくて、働けなくなるまで必死に働いてお金を使い切ったら死ぬくらいが理想なんだけれど、きっとそんな風にはならなくて、高度化した医療技術と自分自身の惰性によってある程度長生きしてしまうんだと思う。せっかく生きるなら常に前向きに向かう先のあるハリのある毎日を過ごしたいからこそ、拵える遊びにチャレンジし続けるのはきっと悪くない選択なんだと思うけど、どうだろう?

 

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