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「努力のアロケーション」「努力の単価」

「できる限り楽してだらだら生きていきたい」

それが人間ってものなのに、僕たちが身を置く資本主義社会はそれを許してはくれない。仕事をしないと生きられない。仕事をしてみればそのほとんどが面倒な作業だし、やりきれない理不尽な出来事も多発する。正直、なんの手違いでこんな仕組みになってるのかと頭を抱えざるを得ない。

一定速度で燃費良く人生を進んでいこうとすると、結構この社会は(ココロが)しんどいんじゃないかなあというのが僕の持論だ。全員に競争を強いて勝ち残ったものが快適に暮らせる資本主義社会下で、燃費良くいい暮らしができるのは、既に恵まれた環境にいるものだけだろう。

並外れた何かを生み出さないと基本的に生き残っていけないシステム下において、「それなり」で生きていると、能力のあるものや努力したものに負け続けることになってしまう。「それなり」で、苦労なくぬくぬくと生きていきたいからといって、常にそのように振る舞っていると、気づけば全ての競争に負け続けてしまって望んだ生活からどんどん遠ざかってしまう。

「努力のアロケーション」

物事の多くが、【能力×努力】の総量で勝者が決まるとすると、人生で何度も訪れる競争で勝ち星を重ねて快適な暮らしを守っていこうとすると、適正な競争を選ぶことは大前提として、努力をどこに投下するのかが結構重要になる。

人生を快適に送っていくために、"努力のアロケーション"が重要な鍵になる。

競争に勝つことができれば、その次の競争にはアドバンテージがある状態で臨める。有利な競争に勝つことを繰り返すことで、結果的に良いポジションをとっていくことができる。だから、狙った競争に勝つことが相当重要だ。

しかしながら、勝つためには「それなり」では難しい。
「それなり」はみんなが望み、得意とするところだからだ。勝つためには、【能力×努力】の総量が相対的に上回っている必要がある。適性のあるステージを選ぶのは当然のこととして、払うことができる努力をなるべく多く払う必要がある。

「努力の単価」

そこでもう一つ重要なのが、「努力の単価」だ。
運動が好きな人が10kmランニングに割く努力の単価と、運動嫌いな人のそれはイコールではない。だからこそ、努力の単価がなるべく低い努力をチョイスすることが大切になる。

「好きこそ物の上手なれ」

という言葉があるが、これは努力の単価が低いからこそ、投下できる努力の総量が多くなる。それを【能力×努力】の計算式に当てはめたときの総量が多くなり、結果的に競争に勝つことができる、という話だ。

「できる限り楽してだらだら生きていきたい」

冒頭に話を戻すと、多くの人間はこういう思想を持っているのにシステムがそれを許さない。であれば、そのシステムをハックしてなるべく体感値としての努力の総量をいかに少なくして、快適な生活を担保していくかを選んでやる。環境を変えるのはなかなかに難しいことが多いから、自分の中の変えられるところを変えつつ、なるべく楽して快適な人生を送っていきたいなあと思うなどしている。

我ながら、なかなかに小賢しい考え方だなあと思う。

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PS,
投資の概念そのまんまの考え方を「人生」と「努力」に置き換えて考えてみたから思い出したけど、僕がこれまで出会った中で最もすごいなと思った作品はライゾマの真鍋さんの「traders」です。

本当にかっこいいですよね…


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