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変わらないことで起きる変化を期待して

「変化の激しい時代」、「VUCAの時代」などと言われて久しい。というか、現代に生きる人間で、「変化が遅い時代」というものを知っている人間なんているのだろうか。いつの時代も目まぐるしく状況は変わり、人間は変化を強いられて生きてきたように思える。

日本だけに目を向けても、戦争をしていた時代は戦況によって民衆を取り巻く状況は日々変わっていた、高度経済成長の時代は、みんなが必死に働き、文字通り高度に経済を成長させ、それが生活環境に大きな変化をもたらしていたはずだ。やがてバブルが到来し、人々が消費することを覚え、それが弾けて世界を不安が包んだ。IT革命が起きて情報が流通する速度が急激に上がり、仮想世界の構築が始まった。そして新型コロナウイルスの流行が現実世界を停滞させ、仮想世界の構築を加速させた。

「変化が激しい時代」というと、「変化が激しくない時代」があるように錯覚するが、このように捉えると、人間の一生が80年だとしても人生に2度か3度は、生き方が大きく変わるような変化にさらされているし、人はその度に適応することを強いられてきたように見える。

もっとミクロに捉えても、例えば”太眉ブーム”と”細眉ブーム”が順番に到来するような「行き来する流行」もたくさん存在する。

自分の人生をより良いものにしていくために、こういう"大波"、"小波"をうまく乗りこなす必要があるのだろうなあとぼんやり考えている。僕だけでなくみんながそんな風に考えて、「時代の波を捉え、乗りこなす」ことの必要性が説かれ続けている。変化に敏感になって時代を先取りし、"大波"、"小波"を乗りこなしていくような人生が理想形として描かれている。

僕自身もそんな生き方がいいなあと思っていたし、飽きっぽい性分だから今もある程度は、そういう風に色んな波にちゃんと乗っかっていく方が向いているとは思う。

東京に住んでいた頃は、毎週毎週新しい人と知り合い、新しい飲食店に足を運び、新しい体験を浴び続けていた。それはとても刺激的で楽しかったし、僕もまだ年寄りと呼ぶには好奇心も体力も余っているから、今もある程度そういう生活を求めている部分もあるにはある。

消費する・浴びる生活を続けていると、時間がいくらあっても足りることはないから、退屈しない。退屈に捕まる時間が少ないと人間はちゃんと前に進んでいる錯覚を起こして安心してしまう。ある日ぼんやりとそんなことを考えていると、ふと人が作ったものを消費するだけだと際限無く時間が溶けていくなんじゃないかと不安になった。雪国で雪かきをし続ける光景が脳内に浮かんだ。雪国に住んだことはないんだけど。

僕は僕自身のために、自分の中に変わらないものというか、"努めて変えないもの"を持つ必要があるのではないかと考えている。できればそれは、"つくること"でありたいと漠然と思った。そうは言ったって、音楽を作れるのかというと多分今の僕には難しいし、彫刻をするのも当然スキルが不足しているし、今のところ前向きにはなれない。

こういうものは、まずは始めて、そしてある程度我慢強く続けてみることが何よりも大切なんだと思う。では、今の自分が作ってなんとかカタチを為しそうで、続けられそうなものは何か?と考えた時に出てきたのが、「文章」と「グラフィック」になった。

だからとりあえず、書きたいことがなくても。くだらない文章でもなんでも書いてみて、noteを使って世に出すことにした。ヘッダー画像も作るのは面倒だし、まず何を作って良いかわからないことばかりだ。画像編集ソフトのスキルも何もかも足りていないが、何かしら自分で作って世に出すということを決めて、続けてみることにした。

今更すぎるが、それがこのnoteであり#カベラジオ だ。

「アドはアートではない」

という言葉がある。
僕は元々広告会社にいたこともあって、この考え方にかなり染まっており、全ての商品や作品は、誰かに受け取られることから逆算されたものであるべきだと考えている。広告の仕事をしているときに、流行らない、受け入れられない、なんてことは当然許されなかったし、仕事が世に出た時はいつも世間の反応ばかり気にしていた。

しかし、#カベラジオ はその発想の真逆をいっており、僕が僕自身のために変わらず作り続けるために存在する。だから一応、世に出すんだけど、見られない、いいねがつかない、流行らないのは当然のことだと考えている。実際、はじめて2週間ほど書くことを続けてみて、反応がないことは正直それほど気にならない。一方で不安も少し出てきた。

「これ(文章を書くこと)って意味あるのか?」

反応がない、受け入れられないことで、自分がこんな風に思ってしまう日が来るのではないかという不安だ。続けるためのモチベーションを失ってしまう日が来ることの不安と言い換えることができるかもしれない。

受け手のことを正直一ミリも考えずに書いた、書き殴った文章を恥ずかしげもなく世に出しているのだから、受け入れられないのが普通なのだけど、受け入れられないのであれば、こんなものを世に出しても仕方がないのかもしれないという気持ちにならないでもない。

でも、仕事の合間を縫って毎日投稿する文章を受け手のことを考え抜き、受け入れられるものにするのは正直無理だ。曲がりなりにもそういう仕事をしてきて、それについてはある程度の確信を持って言うことができる。折り合いをつければ良いじゃん、と考えてバランスをとるのも手だが、それを目指すだけでも心理的なハードルがとてつもなく上がる。やはり書きたいことを書く以外に、これを毎日続ける方法はないような気がする。

作るって難しいし、作り続けるのはもっと難しいなあ、という当たり前のことに実感を持って気付くことができた。それだけでも、やってみた意味はあるというものだろう。

自分の中に変わらないものを持つ、そしてそれは作ることでありたい、という気持ちは結構強いものだし、くだらない文章ではあるが、書くことを2週間ほど続けたことで、結構重要な示唆を得ることができた。

そういうわけで、今のところ、しばらくこれを続けるモチベーションは保たれているように思う。(トラブルがあって書けない日のために書き溜めたものも少しずつ増えてきている)

変わり続ける時代に、(努めて)変わらないものを持つことで、大きな変化を得ることができるのではないか。

今日の#カベラジオ は、自分自身を使った実験の途中経過のレポートでした。

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