道具
建築の本を読んで、"すべてのものって道具なんじゃないか” と、ふと思った。
つまり、どんなモノでもそれ自体に価値があるのではなく、何かの目的を果たすために存在するとき初めて価値を発揮するのではないか。
考えを巡らせ、発散させてみる。
スマートフォン、テレビ、ペン、包丁、楽器、家、道路。
うん、道具だ。
言葉、文字、歌、絵画、保険、免許。
物理的には存在しないが、何かの目的にそってそれらは存在していると言える、と思う。うん、道具だ。
観葉植物、ペット、実験用の動物。
だんだん怪しくなってくる。
それ自身に意思があることで、必ずしも何かの目的を果たすためだけに存在している、とは言い難い。
しかし、”観”、”ペット=愛玩を目的として飼育される動物”、”実験用”、と敢えて言葉で表現されている様に、逆説的にそれそのもの自体は道具ではない、と言える。元々道具ではないものを道具的に解釈するとこれらのものになるのでは。
これらはどうだろう。
海、空、動物、野草、人間。
これらは何かの目的のために存在するだろうか。生きる意味とかを考えることはできるけど、何かの目的を果たすために存在する、の”何か”を定義できるだろうか。
これらは ”人間の意思” とは関係なく存在する。意思を持って存在した時点で、海は養殖場に、空は移動空間に、動物はペットに、野草は観葉植物に、人間は・・・。
とにかく、これら自身は道具ではないと言えることは確からしい、と自分の中では着地出来そうである。
つまり、自然の一要素であること≠道具、と言えそうである。
ただ、人間の解釈によって意味を持った時点で、それらは道具的になる。
倫理の狭間には危険な空気が流れていることを感じた。
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