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性の生しぼり|『全部を賭けない恋がはじまれば』を読んで

高円寺、池袋、渋谷、五反田、東京に上京してきた「私」とは生活圏が近いようで、駅前の雰囲気がありありと目に浮かんでくる。「もしかしてあそこか?」なんて考えながら、物語に出てくる街のホテル街を思い出す。読み終わる頃には、この物語が小説であることをすっかり忘れてしまっていた。そう感じさせるくらい、どこにでもある特別な物語の数々が綴られている。

「忘年会」の話が特に好きだった。登場人物が全員若くて、勢いがあってめっちゃバカだ。品も無ければ、金も無い男女の浮ついた集まり。こういう所でゲームをしながら飲む楽しさを私は知っている。振り切ってバカになって、夜に流される日があっても良いじゃないか。

著者の稲田万里さんは、編集者兼ライターの栗田真希を通して知り合った。大人になってからできた友人のうちのひとり(だと勝手に思っている)で、「書く人」の先輩だ。年が少し上でお調子者の私にも優しく、友達とか先輩というより私は「ねぇちゃん」がいたらこんな感じなのかな、とこれまた勝手に思っている。誰かの特別になるのが上手な人なのだろう。でも、普段のゲラゲラ笑ってお話してくれるところとか、真剣な占い中の表情からは「性」を全く感じない。やはり、稲田万里とコスモ・オナンは別の人なのだ。

多くの人が経験した出来事かとは思うが、初めて「セックス」を知ってしまったときひどく衝撃を受けたものだった。両親はもちろん、従妹の両親(つまり叔父と叔母)もセックスをしている。小学校の授業参観に来て、教室の後ろで突っ立っている大人たちもみんなセックスをしている。PTA会長だって当然セックスをしている。「世の中はセックス人間ばかりじゃないか!」と、見る世界が変わった。裸で抱き合うなんておかしい。おかしい人たちがまともな顔でうろうろして、何も知らない子どもに大人ぶっている。良いこと、悪いことを教えてくる大人たちは、こっそりヤバいことをしていたんだ……。確かな嫌悪感があった。でも不思議と、興味津々だった。初めてエッチな漫画を読んだのは小学5年生のときだったはず。

コスモ・オナンさんの文章は、エロいけど猥褻じゃない。おシモの話だけど、あんまり恥ずかしくならないのは「私」がセクシーすぎないからだと思う。飾らない心の動き。お腹が空いたらご飯を食べるように、眠くなったら寝るように、男女が揃ったからセックスをする。みんな隠しているだけでしていることなんだから、本当はエロいことでもなんでもないのかもしれない。「私」は、私であってこれを読んでいるあなたでもある。

その一瞬は特別であっても、終わってしまえば人生の1ピースでしかない。昨日食べた焼鳥が消化されて血肉になっていくのと同じように、恋愛もセックスも日々を過ごしていくなかで昔の物語に変貌していく。

ご機嫌よう。
繰り返す日々のループの中で、導かれるように巻き込まれていく由無し事。記憶から消せない物語って、誰にでもあるでしょう。

占い師 コスモ・オナン

かつて、私のクリスマスは12月26日だった。愛した男が大切にしていたのは、私ではなく私の友人だった。よくある話だ。

みんなのアイドル的存在だった美少女のクラスメイトは、裏アカでハードなパパ活をしていた。大学の友人はサークルの中で彼女をとっかえひっかえするヒモ男だった。素朴だった後輩は、留学先でセックスを覚えてビッチになって帰ってきた。あれもこれも、よくある話。

人から見ればわずかな火の粉でしかなくても、自分の身に降りかかれば大火事だ。恋に生きる人はみんな、自分の恋愛がいちばん大変だと思っている。笑って泣いて振り回されて、それでも好きで、辛い辛いと言いながらふとした幸せに酔っている。

でも、それを面白く書ける人は少ないんじゃないだろうか。美化されたり、感傷的に仕上げてしまったりしそうなものを、稲田万里さんは等身大で描いてくれるから嬉しい。ティーンズラブの漫画なのに、ヒロインに指毛や毛穴がしっかり描きこまれているような感じだ。

愛と性の物語は、美しくない方が面白い。


期待されても何も出ない


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