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実写『リトル・マーメイド』 多様性が消えた世界

押し付けられた多様性、というアイデアに対して、どんな答えが返ってくるのだろう、と思っていた。

実写『リトル・マーメイド』
美しい映像と音楽に感動したのはもちろんだけれど、私はこの映画を観て、エンターテイメントが「多様性」という概念そのものを吹き飛ばしてしまう瞬間に出会った。

映画として素晴らしいのかどうかは、上手く話せない。
私はとにかくワクワクして、びっくりするほど泣いて、感動ばかりが残ったから、最高の映画だった、と思うのだけれど(エンターテイメント作品に「感動」以上の評価軸があるだろうか)でも、私があそこまで泣いたのには、色んな理由があった。
そんな風に考えたり感じたりしない人も、もちろんいると思う。

ただ、アリエル役のハリー・ベイリーがとても魅力的で素晴らしかったことは間違いない。
そしてそれは、アフリカ系の俳優であるということにものすごく関係がある一方で、まったく関係なかったとも言えるのだ。

トリトン王のもとに集まる「七つの海の娘たち」
この時点ですでに、影響力があるゆえに配慮を求められるディズニーの中の人たちの、苦心と真心に触れた気がした。
七つの海の娘たち。単純なことかもしれない。でも圧倒的な映像と音楽に彩られたその設定には、言葉にならない説得力があった。
ディズニーランドの「イッツ・ア・スモールワールド」のような、ジョン・レノンの ”Imagine” のような、綺麗ごとかもしれないけれど、それでも圧倒的に優しくてワクワクする、アートだけが示してくれる理想の世界。

そういうものを見たり聴いたりすると、私は人間の根本的な優しさを信じたくなってしまう。本来はだれもがそういう世界に生きて、幸せでいられるはず、と思ってしまうのだ。
実際の世界がそう単純ではないからこそ、それを真剣に描いてくれる人たちの存在を思って、嬉しさと切なさに涙が出て、どうしようもなくなってしまう。

ただ、一番楽しみにしていた ”Part of Your World” のシーンで襲ってきたのは、まったく別の種類の感動だった。

あとで知ったことだが、SNSでハリー演じるアリエルの姿がお披露目されたときの、アフリカ系の女の子たちの反応について、「胸がいっぱいになって、涙があふれた」とハリーは語っている。
憧れのディズニープリンセスは白人、と思っていた女の子たちにとって、それはどんなに心踊る「自由」の発見だっただろう。

ハリー・ベイリーが歌い上げる ”Part of Your World” のシーンを観たとき、長年この歌に接していながら一度も考えたことのなかった思いが、心を攫っていった。
可愛い人魚の持ち歌だとしか思っていなかった名曲が、たくさんの不自由と憧れと情熱を代弁できる歌であったことに、今さら気づいたのだ。

Wanderin’free
Wish I could be Part of that world

サビの最後の部分で、ハリーはアニメとはまったく違った表現をしている。夢見がちで上品に、軽やかに歌うアニメのアリエルに対して、ハリーの歌い方からは、激しいfrustrationと炎を感じる。そしてそれが、とても可愛くて美しい。

可愛くて美しいといえば、ハリーの髪型にも私は見とれてしまった。
あの流れるような赤とピンクのドレッドヘアは、アニメのアリエルの赤毛と、ハリー自身の大切なスタイルを融合させたものだ。
「ロブ・マーシャル監督が(5歳から続けている)私のドレッドヘアをそのまま使いたいと言ってくれ、とてもありがたかった」とハリーは言っている。
ドレッドヘアでアリエルを演じることは、ハリー・ベイリーにとって、とても大切なことだったという。

乗り越えられない壁が無数に存在してきたこの世界で、ハリーが歌うこの歌に、アニメ以上の意味を感じ取る人は、きっとたくさんいるはずだ。
この日本で、生まれながらの壁というものをほぼ知らずに生きてこられた私がそんなことを思って泣いたのは、人種差別によって抑圧された人々の物語を、最近いろいろと読んだり聞いたりしていたせいもあったかもしれない。


しかし驚くべきは、そんな思いを感じると同時に、アリエルがアフリカ系である、というこの映画のタグのようなものが完全に外れてしまったことだった。
ハリーはただ、アリエル役として最高だったのだ。表情の豊かさ、情熱、可愛さ、歌声の美しさ。それがたまたまアフリカ系の俳優だった、というだけではないのか。七つの海の娘たちの中で、アリエルを演じるべきはハリーだったというだけではないか。

さて陸に上がると、そこは多様性の楽園みたいになっていて、最初は不思議な感じがするけれど、そのうちに気づく。多様性なんてものは、ここには端から存在していないのだと。色々な人種がいる、という概念自体が、気づけば頭から消えている。当然、足を得たアリエルがそこに入っていくのに何の障害もない。

極め付けは思わず目を見はる最後のシーンだ。

これはけっして多様性の押し付けなんかじゃない、と私は感じた。
たとえそれが理想でしかなくても、冷めた目で見る人たちがいても、多様性という言葉を超越した世界を、最高の映像と音楽にのせて大画面で見せてくれる。それが今のディズニーなのだと。

そう思うと、似て非なるものがあった。2021年東京オリンピックの開会式の一部が、まるで多様性の祭典のようになっていて、理解はできるけれど、わりと冷めた気持ちで見ていた自分を思い出した。

頭の中で比べて気づく。こういう、単純だけれども難しいことをやってのけるには、やっぱりちゃんとした物語が必要だ。表情の見える人々が、交わされる思いやりが、ちょっとしたユーモアが。
アリエルとエリック。二人を見守る大人たちの、ちょっとした優しさ、人としての心の優しさ。思い返せば、色々と微笑ましいシーンがあった。
これだけ作り込んだ物語をもってしてようやく、「多様性の押し付け」というアイデアを撃退できる可能性が出てくるらしい。

この作品には、ファンタジーの世界にだけ存在する、人間界と人魚界の分断と和解が描かれている。そこにはもちろん、現実世界に対する願いも込められているはずだ。
ただ、実際にこの世界で分断されている人々は、映画の中ではみな一つになって生きている。一つになるという意識もなく、肌の色なんて、髪の色なんて、家の番地の違い程度でしかないかのように。


文章にすると仰々しいけれど、これは全部、映画を観ている最中に突風のように吹き荒んだ感動を、どうにか言葉にしたものだ。
そしてこんなことが実現したのはすべて、ハリー・ベイリーという俳優にとてつもない魅力と説得力があったからだ。

観る前の私の思いはこうだった。
主役に黒人の俳優を選ぶことで、多様性を実現しようとしている。多様性に気を配っていることをアピールしている、というふうにも見える。確かにとても有意義なことだけれど、白人以外を選べばいいというものでもないし、エンターテイメントとして作り上げられた世界観を、表面的な多様性で崩すのってどうなのだろう? それって、逆に色々と失礼ではないか?

つい一昨日の朝までの考えを、無理に思い出して書いてみた。うまく思い出せないくらい、こんな了見の狭い考えは過去のものになってしまった。

ロブ・マーシャル監督は「役にふさわしい俳優を探していただけ、あらゆる人、あらゆる民族の候補に会った」という。
「僕らはある意味、(人種など)そうした観点を超越してここまで来た」と。

ハリー・ベイリーが選ばれた過程については、VOGUE JAPANの記事に詳しく書かれている。
https://www.vogue.co.jp/article/halle-bailey-the-little-mermaid-interview

監督の言葉はきっと本当なのだ。
凝り固まったものの見方をしてしまうのって怖い。素晴らしい映画だった。本当に観てよかった。
アニメの実写化に不信感を抱きがちな私は、アニメ版を好きであるがゆえに、もう少しで「絶対観ない」を貫くところだったのだから。

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