ガチ恋オタクと地雷 【誰かの萌えは誰かの萎え】
古今東西、数多のオタクが存在する昨今。
そんなオタクのなかでも、とびきり難しいオタクがいる。
『ガチ恋オタク』である。
そもそもガチ恋オタクとは?な人に向けて説明すると、いわゆる『実在の芸能人や、二次元のキャラクター等と付き合いたい』という人のことである。ガチ恋ではなくリアコ(リアルに恋しているの略)、夢女子(男子)と呼ばれることもある。
かくいう私も、とあるキャラにガチ恋をしている。私の頭の中では付き合っているということになっている。この時点で頭がおかしいと言われても、ぐうの音も出ないというのが正直な気持ちである。
私がガチ恋してるキャラは、作品が終了してから年月が経つものの、作品内でも結構人気のキャラだ。
とはいえ作品自体の知名度は高くないので、私はひっそりとキャラを愛していた。ガチ恋勢という立場上、なるべく人目につかないようにしていた。
そこまでは良かったのである。
話は変わるが、大体のオタクには『地雷』が存在する。
『地雷』というのは、いわゆる苦手なもののことを指す言葉で、地雷という言葉の通り、見てしまうと相当のダメージを心に負うことになる。(※個人差があります)
ある日のことだった。
私は見てしまった。
そのキャラのカップリング作品を。
しかも避けようのない「作品名のハッシュタグ」をつけた状態で…!
私はスマホを投げた。
そしてTwitterを閉じた。
心的ダメージは凄まじいものだった。
───ガチ恋オタクとは、それが異性だろうと同性だろうとカップリングは地雷なのだ。推しと自分以外のカップルは認められない、悲しくも厄介で難儀なものになるのだ。
そういう場合、平和的解決方法として「ワードミュート」や「検索をしない」のが一般的だ。次点で、その手の話をする方をブロックしておくという手もある。
【誰かの萌えは誰かの萎え】
という偉大な先人たちの教えに従い、私も検索せず、ワードミュートを駆使し、心の平穏を保った。元々公式からの供給は既に絶たれたジャンルである。そして何より自給自足には慣れているので、特に苦は無かった。
そして月日は流れ、今。
相変わらず公式からの音沙汰は皆無だが、とある供給元が出現し、私は狂喜乱舞した。しかし、そこでも悲劇は巻き起こるのであった。
パッと見で分かる、ガッツリ私の地雷であるカップリングの話をするアカウントと出会ってしまうのである。
私もオタクの端くれ。キャラの数だけカップリングは無限にあることは知っているし、自分自身、面白ければBLだろうがGLだろうがなんだろうが抵抗なく読めるタイプの人間なのだ。
が。
これだけは度し難い。
何故なら私はガチ恋オタクだから…!!二次元のキャラとはいえ、恋人が他の人を見るなんて耐えられない…!!
そして悲しいことに、そのカップリングの話をする垢は、かの供給元に認知されているのである。勇敢というか無謀というか、アイコンもそのカプ絵にした上で。
行動したものが正義である。勝ったものが正義である。認めよう。
誰が何をカップリングとして捉えるかは自由である。そもそもキャラと自分というカップリングをしている時点で、人のことをとやかく言う資格などない。
カップリングを隠せ、とは言わない。
【誰かの萌えは誰かの萎え】
偉大なる先人たちの残した教えがある以上、私も他の誰かから見れば地雷であり、先行ブロックされて然るべき存在なのだ。
数多のジャンルと隣り合わせに存在する「自分」と「推し」のカップリングが嫌いな人は世の中に少なからず存在する。
オタクにとってのカップリングとは、ある種のアイデンティティなのだと思う。揺るがされてはならない、頑として譲れないものだと思う。
ここまでつらつらと書いてきたが、私がガチ恋オタクになって後悔したことがあるかと問われると、答えはYESとなる。
とはいえ、恋に落ちてしまったことを取り消せるわけもなく。自らの内にある、キャラへの恋心を貫く方がずっと未練なく終われそうだと思ったのだ。そして『推し』としても、『最後まで推した』という充足感をもってして、違うキャラを推せると思ったのだ。
まるで現実の恋愛模様を呈しているが、実際そうなので仕方ない。
この恋心はそのままに、数多のカップリングが存在する現実と向き合わねばならない。
【誰かの萌えは誰かの萎え】
私も誰かの地雷であり、誰かもまた私の地雷である。
ガチ恋は悪ではない。
カップリングもまた悪ではない。
少し、見ている場所が違うだけだ。
ガチ恋オタクの私は今日も自分の頭の中で、キャラと付き合っている妄想をしながら生きている。