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細雪 [日記]

 新年の読み初めになんとなく『細雪』選んだのは、ソラリという青空文庫がダウンロードできるアプリと、大学院の時に同じ研究室のY君からある日突然手渡された『陰翳礼讃』の影響が色濃い。谷崎潤一郎は永らく私自身の課題であり、勝手に因縁を感じていた(そういう作家は何人かいる)。

 『陰翳礼讃』を読んだ時の衝撃は忘れられない。美しいものと不潔なものとの境がわからなくなって、本の中にある翳りと湿り気と僅かばかりの据えた匂いを放つあれやこれやが、非常な艶かしさでもって心の奥の方にスーッと一筆の線を描く。描かれたその線はやがて消えるが、透明な筆で撫でられた時のひんやりとした心地は忘れ難い。時折、感触を思い返して大事に反芻してみたりするほどに。

 『細雪』の舞台となる昭和初期は、ちょうど祖父母が活き活きと過ごした時代だった。遠い昔に実家の蔵に無造作に置かれていた紺色のトランクいっぱいに入った当時の写真などを見たことがあったせいか、想像の手がかりとなるような情景の萌芽はあった。

  終始澱みのない筆運で描かれる四人姉妹の物語は、鮮やかな臨場感を持って進んでいく。語り運ばれていく情景はまるで映画のようで、息遣いや音、匂いや光の具合までもがくっきりとした輪郭を持って脳裏に再生されていく。それらの光景や事件に徹頭徹尾、翻弄されっぱなしで寝食を忘れて読み耽った。

 そんな素晴らしい物語の着地点として、あのような最後になるとは予想外かと思ったが、ふと『陰翳礼讃』のことを思い出すと存外そうでもないのかも知れない。谷崎が日本の風土に見ていた不潔なものがふんだんに盛り込まれている美しさというものが、濁りのない言葉で濁されていくさまは、すっきりとした解決をもって締められる物語よりもよほど鮮烈に記憶に残ってしまうのだから。

 ある作家のどの作品から入ったのかというのは結構重要なのではないか。おそらく『細雪』を最初に読んだのだとしたら私の場合にはもう他の谷崎作品の頁を繰ってみようとは思わなかったかも知れない。最初に読んだ作品を覚えている作家の作品は、そういえば長く読み継いでいるものが多いのではないだろうか。手始めにここに記すと、

 『ねじまき鳥クロニクル』 村上春樹
 『六番目の小夜子』 恩田陸
 『薬指の標本』 小川洋子
 『箱男』 安部公房

 そして『陰翳礼讃』。いずれも長く、繰り返し読み継いでいる作品や作家だ。個人的な読書遍歴というものはその人の人生観や人間性に通ずるものがある。何を読んでいたかでどんな思いを打ちに秘めていたかの片鱗に触れられるような気がする。

 繰り返し聞く曲にそれぞれの時代があるように、めくった頁の向こうにも時代がある。私の今が、またこうして組み立てられていく。


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