見出し画像

ヤクザヘヴン 【2/10】



(前回)



第二章 現代ヤクザ小史


 二〇一〇年代、SNSの普及と異常発達に歩調を合わせるように世界の表舞台に登場し、日々存在感を増すヤクザであるが、その起源は太平洋戦争末期にまで遡る。

 太平洋戦争終結目前の一九四五年八月、相次いで実戦使用された二発の核爆弾は、壊滅的な被害をもたらした。核が投下された街にとっても、そして、投下した側にとっても。

 八月六日当日の夕方には早くも広島市内でこの未曽有の兵器に対する調査活動が開始され、同月一〇日には、その兵器が原子爆弾と推測される旨の調査結果がまとめられることとなった。そして、このような調査と相前後して次々ともたらされた、調査活動や救助活動に携わった者による信じがたい被害状況の報告の数々に混じって、奇妙な報告が散見された。曰く、人間とは思えぬ怪力をもって救助や復旧にあたる者が一人ならず目撃されている、重症から異常な速度で回復する負傷者が少数とはいえ続出している、確かに空を飛ぶ人間を見たという目撃情報が複数寄せられる、等々。

 同月一五日、大日本帝国はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏、同年九月上旬には早くも占領業務を開始すべく合衆国軍により構成される進駐軍が広島市に到着した。そして、民間人が多数居住する都市での核の使用が何をもたらしたのかを、その使用者も目の当たりにすることとなった。

 焼け野原となった街に早くも形成されつつあった闇市で進駐軍を待ち受けていたのは、不敵な面構えのわずか数名の広島市民による、適度に加減された暴力と徹底的な武装解除、そして度を過ぎた罵倒と嘲笑だった。悪趣味極まることに、兵士たちにも分かるように英語で浴びせられた侮辱の数々は、誰が教えたのか、嫌味ったらしい完璧なボストン訛りであった。広島市民に対する兵士たちの抵抗は全くの無意味であった。兵士たちは口々に「超人に襲われた」と証言したが、これらの証言は核による被害状況に関する情報と共に、GHQにより完全に隠蔽され、報道は禁止された。

 進駐軍が自ら消費するために持ち込まれた食料をはじめとする物資や進駐軍の兵装、車両等は、繰り返し大規模な略奪の対象となった。腹を空かせた兵士たちが広島の闇市で目にしたのは、本来自分の胃袋に収まっていたはずのソーセージやポテトを、合衆国陸軍の制服とぴかぴかのミリタリーブーツといういでたちの忌まわしき広島市民が大々的に売りさばいている光景であった。

 闇市を訪れた合衆国からの客には、当然のように地元民相手の価格の一〇倍二〇倍の値段で商品が販売された。余所から食料の補充が来るまで、兵士たちはぼったくり価格を承知で闇市で食料を買い求め、飢えを凌がざるを得なかった。そして、待望の補充物資が届き存分に腹を満たしたのもつかの間、再び略奪によって飢えに陥るというサイクルが、進駐の終了まで際限なく繰り返されることとなった。ここ広島では、「ギブ・ミー・チョコレート」の定番フレーズは、たどたどしい口調の薄汚れた子供たちではなく、闇市で広島市民に渋々ぎこちないお辞儀をする軍服のネイティブスピーカーたちが口にするものだった。

 だが進駐軍にとって幸いなことに、彼らが最も恐れた事態、すなわち、奪われた大量の武器によって武装した広島市民の一斉蜂起が発生する兆候は見られなかった。逆に、広島市民に奪われた銃火器とおぼしき破壊された大量の武器の残骸が度々発見された。広島市内のあちこちに放置された武器の残骸は、くず鉄として市民が自由に持ち去って良いというのが市民たちの暗黙の了解となっていた。

 ここに至り、GHQ内部ではある仮説が囁かれるようになった……広島の進駐軍は、金づるとして体よく生かされ、搾られ続けているのではないか? このような仮説をめぐって延々無意味な議論が行われた。広島市内の治安は、市民の武装蜂起どころか、日本の他の地域と比較しても、それどころか欧州のどの国と比較しても、奇跡的といってよい状況である。進駐軍から繰り返し略奪される物資が市民に行きわたることで、それが実現しているのだ。進駐軍を撤退させた上で物資だけを供給してもさしつかえないのでは? 大体、広島市内における暴力行為の被害者は、広島市民に対して横暴な振る舞いに及んだ兵士たちがその大多数を占めるのだ――

――言語道断だ。広島から進駐軍が撤退したと知れ渡ってしまえば、日本各地での反乱の火種にもなりかねん。諸君は知っているだろう。日本人の本性を――

 そう指摘されると、議論の相手も思いを馳せざるを得ない。たとえ全国民が戦死することになろうともヒロヒトに絶対の忠誠を捧げる狂信者たち。彼らに迂闊に自由を与えれば破滅的な結末となるだろう……結局のところ、どのような見解に立とうと関係なく、戦時中のプロパガンダのために彼らが自らでっち上げた日本人の虚像に、彼ら自身が縛られていたのだ。そして、広島問題への対処手段は暗中模索の状態のまま、進駐軍金ヅル仮説が裏付けられるまでにはさほどの時間を要しなかった。

 一般の兵士たちや市民たちのからの情報を隠蔽する一方で、GHQの上層部の指示により、広島に潜む謎の存在について密かな諜報活動が行われた。「超人」という呼称は広島に関する公式文書では徹底的にその使用を避けられた――焼け野原に巣食う東洋人が世界のリーダーたるべき合衆国の市民に優越するかのような印象を与える語句の使用は好ましくない。しかしながら、放射線に被曝することで低い確率ながらそのような突然変異者が生まれることは、核兵器実用化の前から一部研究者ら、特に軍事目的でそのような研究を推進する者らの間ではよく知られていた。そもそも、いわゆる「超人」の軍事利用を目指した研究自体、数十年来列強諸国で盛んにおこなわれていたものである。各国の政府は決して公式に認めないながらも、第一次大戦の西部戦線に早くも超人が実戦投入された事実は公然の秘密である。研究を通じて人為的に生み出された超人も、既に第二次大戦末期の欧州戦線で実戦投入済みだ。だが、政府や権力のコントロール外で活動を行う存在に対する対処は、GHQにとっても関係諸国にとっても全く未知の領域の問題であった。その危険性を明らかし対処方針を決定すべく、早急なる情報収集が必要である。

 情報が不足する中で、彼らに対する呼称一つをとってもこれを決定するための馬鹿馬鹿しい議論がGHQ内部で行われた。メタヒューマン、インヒューマン、突然変異者、異能者……ようやく議論がまとまりかけたところで広島で目撃されたのは、犬猫に始まって鶏、兎、鳩、山羊、猪、馬、果ては山椒魚に至るまでという、出鱈目な組み合わせの動物の群れを従えて練り歩く一人の幼い少年だった。これら動物の一部は二足歩行のごとき振る舞いをするどころか、不明瞭ながら日本語らしき言語を発声してコミュニケーションをとっていたという。その報告を受けたGHQの担当者は頭を抱えた。放射線の影響は何も人間に限ってのことではないようだ。これら超人間と超動物を包括する呼称をどう捻りだすのか。

 このような議論を余所に、広島市民の間では自然発生的にとある呼称が定着しつつあった。すなわち、「ヤクザ」。東洋の伝統的倫理観に従い行動するアウトローを指す呼称であるとの説明を受け、先の担当者は小躍りせんばかりとなった。ヤクザ。あの忌まわしき核の副産物どもにふさわしいではないか。彼は広島市民に対して初めて感謝の念すら抱いた。一九四五年の末には、早くもGHQ内部の極秘文書に「YAKUZA」の六文字が登場することとなった。

 こうしてめでたく広島の歩くがん細胞どもの呼称が決定したが、彼らに対する調査は遅々として進まなかった。「ヤクザ」が何らかの組織的、統一的な行動指針に従っていることは容易に推察された。だが目立った組織的大規模行動は一向に起こらない。

 「ヤクザ」の振る舞いはGHQ上層部の予想をことごとく裏切っている。GHQの予想は、ヤクザどもと彼らに付き従うチンピラが、やがては組織化され、これ見よがしに社会に台頭して権力の座を狙ってくるというものだった。彼らの本国では、少なくともヤクザのたぐいはそのような行動をとるのが常だった。スーパーヴィランに率いられたヴィランたちは、軍産複合体に格好の予算獲得の口実を与えてくれる上に、ヒーローどもの遊び相手になってくれる有難い存在だ。ヒーローどもがヴィランの相手をやめて社会の構造的問題にでも注目し始めたら、目も当てられない大惨事となるだろう。物資が多少かすめ取られようとも、しけた極東の街にヴィラン集団が出現するのならば、その利用価値は計り知れない。

 しかし、ヤクザは義賊じみた活動を超えた領域に手を出すことはなかった。日本人の情報提供者が闇市で立ち聞きして報告する、ヤクザらしき者と市民との会話(ヤクザたちは一般市民に対して、ヤクザであることを誇ることもなければ逆に隠そうともしない)は、ヤクザ以外には決して把握できない手段によってヤクザ同士が連絡をとりつつ、計画的に進駐軍に対する略奪を行っていること、そして彼らが進駐軍を一様に見下し、戦うべき敵とすら見ていないことを明らかにした。このような報告の積み重ねは、さほどの時間を要せずして、不愉快極まる進駐軍金づる仮説を実証的に証明することとなった。

 個別のヤクザの能力に関して入ってくる情報も気が滅入るものばかりだ。彼らはその能力をむやみに誇示することはないが、ほぼ例外なく極めて強靭な肉体と驚異的な運動能力を兼ね備えている。数少ないものの、時折広島市内に登場する奇抜かつ斬新な機械や乗り物は、彼らの一部が超知性に覚醒していることを推測させた。二足歩行をして喋る人気者の犬猫といったあたりを除けば、一芸に秀でているだけというタイプの二流どころは一体たりとも見当たらない……犬猫のたぐいの身体が全く強化されていないという希望的観測を前提とすればの話だが。

 そして結局、GHQの誰もが最後まで全く知ろうとせず、そして理解しようとしなかった。ヤクザたちにとっては明白な事実を。彼らヤクザのシステムがどのように発展するのかを左右した初期条件を。

 つまり、彼らは誰もが等しく共有していたのだ。あの地獄を目の当たりにし、ただの偶然によって自らが生き残ってしまったという、その体験を。そして、神か仏かは知らないが何処かの誰かのきまぐれによるのか、厳密な科学の法則によるのか、誰にも頼んでもいないのにこの力を得た。あの地獄を見た以上、この力の使い道として人助け以外は思い浮かばない。考える必要すらなかった。あの地獄の只中で、地獄からの復興の日々で、早くも次の月には襲ってきた恐るべき天災の中で、彼らは一様に、考えるまでもなく体が先に動いた。そうして自然と為すべきことを悟り、それを実行した。そして徐々に、力を得た者同士が知り合いとなっていった。

 やがて、彼らだけが使用可能なとある連絡手段を手にした彼らは、廃墟の中で、あるいは人気のない空っぽの倉庫で、人知れず集まり、皆が互いを知るようになった。彼らが誕生した際の初期条件が自ずと彼らを連帯させた。

 程無く、広島市民の間で彼らを「ヤクザ」と呼ぶ者が増えていること、それどころかGHQまで彼らに「YAKUZA」の呼称を与えたことが彼らに知られると、彼らもまた、そのイロニーを大いに気に入った。こうして彼らのアイデンティティに名前が与えられえた。彼らは自らの公式名称として「ヤクザ」を採用することを決定した。世に名高い広島のヤクザの誕生である。

 彼らが為すべき復讐の相手は進駐軍などではない。彼らはヤクザの流儀で世界への復讐を開始した。


――――――――――


 一九五二年の進駐終了を迎えてもなお、ヤクザの実態はそのおおまかな総数すら把握できないままであった。そして最後の最後に進駐軍に情報をプレゼントしたのは、ヤクザ自身だった。

 最後の進駐軍が広島を去る日、進駐軍の最後の車列をヤクザたちが一斉に取り囲んだ。トラックやジープに乗り込んだ兵士たちと集まった市民らが見守る中、ヤクザたちは初めての組織的なお披露目に及んだ。ある者は鉄骨を手で曲げて見せ、またある者は手にした炎を操るといった変わった特技を披露しつつ、ヤクザたちは一斉にジープのボンネットやトラックのドアに取りつき、軽々と片手で引きちぎって見せた。ボストン訛りのヤクザが英語で別れの口上を述べた。

「我々ヤクザは、いつでも皆様を歓迎する所存でございます」

 それを合図に、ヤクザたちは一斉に笑顔で手を振った。そして目にも止まらぬ速さで建物の屋根を跳び渡り、方々に散っていった。

 この時出現したヤクザの個体数は、二百を優に超えいていた。これだけでも、第二次世界大戦終了時に連合国が把握していた、すなわち連合国が何らかの形で利用できた「超人」の五倍以上である。このヤクザたちが一致団結して戦闘を挑んでくるならば、既存の戦力や駒に使える超人で対抗するのは絶望的といえる。そして、あくまで可能性の問題に過ぎないが、このヤクザたちが繁殖行動により増殖したらどうなるのか。帰国した者から報告を受けた合衆国政府首脳は、その光景を思い浮かべて一様に怖気を振るった。

 明らかとなったヤクザの実態は、同時に別の絶望をもたらした。すなわち、核兵器の使用自体が、ヤクザのごとき超人の大量出現の引き金になるという事実。人口密集地での使用は言語道断である。要するに、核兵器はほとんど大量破壊兵器としての実用性を失いつつある。冷戦初期からの雪解けの時代に先駆けて、合衆国はソヴィエトロシアに打診した……合衆国軍による進駐を通じて判明した以下の事実(詳細は添付の報告書の写しを参照)のとおり、核兵器の使用には、その軍事的価値を上回る副作用が存在すると極めて強く懸念される。ついては合衆国は核兵器の研究開発の断念を検討中である。貴国においても、合衆国と共同歩調をとって、核開発競争の終結に合意することを検討されたい云々。

 ソヴィエトロシアは頑なだった。合衆国の戦力だけで日本に進駐したのをいいことに、でまかせの報告をでっち上げて我らが祖国の偉大なる核開発の歩みを遅らせる策略であることは明らかだ。帝国主義者の甘言惑わされることなく、我らが栄光の勝利を目指して革命的に突き進むべし。

 だが程無くして、このもう一つの大国も事実を思い知ることとなった。核兵器がもたらした恐るべき奇跡、神の怒りを目の当たりにすることによって。


――――――――――


 広島と同様に核攻撃を受けた長崎では、連合国による日本進駐終了と同時に国王エラスムスと称する男が「聖長崎王国」の独立を宣言、その教義に基づき、人間を堕落させ信仰を汚す科学技術の廃絶を目的とした全世界に対する聖戦を開始したのである。

 「長崎」はわずか約三年で長崎県の全域を王国の支配領域に組み込み、さらに東方及び南方に進撃した。日本政府は創設間もない陸上自衛隊を総動員して阻止を試みるも佐賀平野の会戦に惨敗、この会戦を視察したソヴィエトロシアを含む各国の観戦武官は、核使用の結果誕生した「聖戦」の主戦力、「長崎十字軍」の恐るべき能力を母国に報告することとなったのである。

 その結果を受けて、合衆国はソヴィエトロシアに「それ見たことか」とは言わなかった。ただ、両大国が新たな核兵器の悪夢を共有することになっただけだ。彼らは結局、最も不毛な選択をした。広島や長崎の悪夢を再現しない核兵器の開発を目指し、次々と新たな種類の核兵器を開発しては、限定された生贄のモルモットが被曝するように実験地を選んだうえで、地上及び水上の核実験を繰り返したのである。このような核開発競争は一九五〇年代後半から六〇年代を通じて行われたが、結局、一定確率でモルモットの中から少しずつヤクザの同類が生まれただけであった。事情を知った彼らが素直に両大国に従うはずもなく、彼らもまた、両大国にとっての厄介な悩みの種となった。そして、彼らの一部は安住の地を求め広島や博多を目指すことになったのである。


――――――――――


 こういった両大国や長崎の動向の一切を「腐れ外道」と軽蔑しながら、広島のヤクザは本格的な活動を開始した。彼らのスタンスは一切の権力性を否定し嘲笑う、権力でも反権力でもない、非権力であった。そしてその基本方針は、広島市民の最大幸福であった。

 社会の悪玉として振舞うのはもとより非現実的であった。市民を敵に回すのは全くの無意味である。たとえ悪の欲望に目覚めたヤクザが現れたところで、バケツ一杯の水さえあれば市民はヤクザに復讐できる。銀行強盗を行った悪玉ヤクザが札束を抱えて意気揚々とねぐらに帰ってきたら、そのヤクザが目にするのは留守の間に市民の誰かにぐしょ濡れにされた寝床という具合に。かくして、悪玉ヤクザは惨めにもぐしょ濡れの布団で寝るか、そうでなければ今度は間抜けな布団泥棒に及んで更なる市民の恨みを買うしかない。悪玉ヤクザを憎む市民たちが気安く布団を売ってくれる保証はないからだ。これでは何のために手に入れた札束かということになる。何が楽しいのかわざわざひっそり山奥か秘密アジトだかに隠れ住みでもしないと、悪玉生活は長続きしない。そしてそのような悪玉は早晩、市民の味方として正道を歩むヤクザからきついお仕置きを受けることになる。

 要するに、荒事となれば天下無敵のヤクザでも、あくまで少数者の集団に過ぎない。気楽に陽気に日常生活を謳歌したければ、広島市民との間の友好と市民からの支持は絶対条件となる。愛されるヤクザをモットーとする協調主義こそ、ヤクザ生存のかなめであった。

 それでもなお、弱者を虐げることに喜びを見出すサイコパスのヤクザは一定割合出現せざるを得ない。彼らは広島を逃れ、その多くが博多の闇の中へと姿を消した。


――――――――――


 自らヤクザを名乗る独特の歪んだユーモア感覚は、彼らが所謂「やくざ」のパロディーにあたるスラングを好んで使用することにつながった。非ヤクザは「カタギ」、彼らの互助会のごとき緩やかな連帯の組織は「組」、その本拠地と、互選により選出される理事によって構成される一応の意思決定機関を総称して「本部」、とりわけ数少ない超知性に覚醒したヤクザや、超知性はなくとも頑張って勉強して諸々の分野の研究に勤しむヤクザは「インテリヤクザ」、唯一理事会の決定に対して拒否権を有する謎の存在は「オヤジ」、ダークサイドに堕ちたヤクザが粛清されたり広島を去るのは「破門」(もっとも、「組」が組織として誰かに破門を言い渡すわけではない)、ヤクザの価値観に反する者は誰であろうと「腐れ外道」等々。彼らの価値観に照らせば、わざわざ思想や信条や主義主張を巡ってもめ事を起こしたり、しまいには市民を巻き込んで暴力的な争いをするような輩は、長崎の十字軍も北米のスーパーヒーローも分け隔てなくまとめて腐れ外道である。

 このようにヤクザたちは「ヤクザ」としてのアイデンティティに基づき、合理的な生存戦略に従った善意の活動にいそしんだのである。

 政治権力とは一切手を切るヤクザであるが、広島の経済的繁栄は広島市民の最大幸福に欠かせない。この観点から、ヤクザは隠すこともなく大っぴらに企業と手を結んだ。鍵となるのはインテリヤクザである。インテリヤクザの中でも超知性を有する者たちは、本部でスーパーテクノロジーを研究している。その成果を地元企業が同業他社よりもちょっとしたアドバンテージが得られる程度に、小出しにしながら地元企業に提供したのである(インテリヤクザたちは、広島の企業が余りに突出したスーパーテクノロジーを手にすることは、企業自体が他国の政府から敵視されて攻撃対象となり、やがては破滅を招くことになると予測した)。その結果、広島を本拠地とする東洋重工は世界有数の大企業に成長することとなった。

 こういったヤクザと企業の親密な関係を維持するため、ヤクザが非合法な経済活動を行うことは厳しく禁じられた。企業コンプライアンスの確保は、地元企業の発展を通じた広島の繁栄の絶対条件である。市民からの支持がある限りにおいてヤクザはヤクザの法の執行者でもあるが、ヤクザが暴力団扱いされては元も子もない。

 ちなみに、スーパーヤクザテクノロジーを大々的につぎ込んだ秘密兵器やガジェットの存在は、当然ながら一部を除いて外部に秘匿されており、大掛かりなメカの出動は最後の手段である。つい数年前から災害救助活動時にこれ見よがしに運用するようになった非武装のヤクザバード(当然ながらサンダーバードの外見を、正当なライセンス料を支払った上でぱくっている)を除けば、幸いなことに現在に至るまで、ヤクザノーチラス号やカチコミバルキリー、あるいはモミジガンダムといった秘密兵器を出動させるはめに陥ることはなかった。どうしようもないオタク気質のとあるインテリヤクザエンジニアは、度々「宇宙人が広島にも攻めてくればいいのに」などと言っては顰蹙を買っている。

 また、たとえ企業が繁栄したところで、その利益がトリクルダウンなどというたわ言によらずに正当に地元市民に還元されなければ、結局のところ労働力が搾取されるだけのディストピア社会にしかならない。九〇年代以降の日本経済冬の時代にあって、ヤクザは臆面もなく地方行政に介入し、インテリヤクザの研究結果に基づく多岐にわたる広島独自の政策を実施させて広島の繁栄を維持した。

 伝統的に労働法制が骨抜きにされ、あるいは事実上無視される日本の企業文化と異なり、労働基準法をはじめとする労働法は広島の企業において厳格に守られている。とあるインテリヤクザ曰く、「厳格な労働法制が企業の競争や成長を阻害するというのは幻想である。いずれの企業も等しく労働法制を順守するという条件下において、公平な企業間の競争が行われるからである。労働法制を守っていては潰れるなどという企業は、要するに、人件費その他のコストを賄いながら企業活動を継続可能な収益を確保するビジネスモデルの構築に失敗し、市場における競争に敗北しただけである。マクロ経済の観点からは、従業員を犠牲にして生き残ろうとする企業の存在はありとあらゆる面で有害であり、市場から速やかに退場すべきである」

 ヤクザが企業に労働法制順守を促すには、企業へのヤクザテクノロジーの提供の停止をちらつかせるだけでよい。下請けや子会社にあたる中小企業が労働法制を順守しなければ、元請けや親会社に対してヤクザテクノロジーの提供停止をちらつかせる。元請けや親会社が下請け・子会社をいじめる場合も同様である。何事に関しても、まずは相手へのメリットの提供を基礎とした関係構築と間接アプローチこそが、ヤクザの流儀の基本である。

 その他の代表的なヤクザ政策として、以下のものが紹介されることが多い(カッコ内は政策担当インテリヤクザのコメント)

・資産要件のない収入上乗せ型の生活保護支給
(従来型の生活保護制度の運用は、いくら受給者が自ら収入を稼いだところでメリットがない上、貯蓄すら不可能であるが、これは明らかに受給者の経済的自立という生活保護本来の目的を阻害する運用である。法的観点からは、従来型の生活保護は生活保護の受給という生存権と引き換えに受給者が財産権を放棄させられる制度であって、そもそも私有財産制を基礎とした市場経済という経済システムにも本来的にそぐわぬものとも言えよう。資産要件を撤廃し、かつ、受給者自らの収入が増えるにつれて、収入総額が結果として増えるように支給額を漸減するシステムに転換すれば、受給者が自ら総収入を増加させつつ、原理的に全体の生活保護支出総額を減らすことが可能である)

・公的な保育園等の乳幼児保育施設及び高齢者介護施設の大規模拡充
(子育てや高齢者の介護を個人任せにするのはマクロ経済の観点からは全く不効率である。これらの業務は家庭内で行う限り全くなんらの富を生み出さない上、これに携わる者が収入を得る機会を制限して、その結果、経済全体では総需要の減少となる。規模の経済に従い子育てや介護の一人あたりの公的コストを減少させ、利用者の保育料や介護料の支払い額を抑えるとともに、子育てや介護の負担を大きく減らすことで、市民の収入は増加し、経済全体に総需要の増加と地方自治体の歳入増加を促すというメリットをもたらす。出生率低下の歯止めとしても有効である)

・入管規制の大幅緩和
(従来の入国管理規制の基本的な発想は、結局のところ根拠のない不合理なゼノフォビアというほかない。外国人犯罪などというものを防止したいのであれば、たとえ外国人であっても犯罪よりもずっと割りの良く安定した職業に差別を受けることなく就職できるようにすれば足りる。広島を目指して日本を訪れた外国人は、敢えて差別的かつ経済的に貧しい広島の外に住もうとはしないであろう。したがって、広島の外からの批判は無視してよい。この政策は、国際都市としての広島の存在感を世界的に高めるであろう)

・児童の学習支援強化
(頭のよい子はほっといても学習能力を伸ばす。幼児期からのエリート教育など無駄であり、ましてや国や地方自治体がエリート養成を目的とする初等・中等教育施設を設立運営するなどというのは不効率の極みである。学習支援は、児童全体の学力の底上げを目的として、学力を低く評価される児童に対して効果的におこなわなければならない。分数の割り算一つをとっても、ある児童がこれを苦手とする原因は、その大部分が教え方のほうに問題があるのであって、そのような児童に対する支援を怠り切り捨てることは、結果として児童全体の学力を低下させ、ひいては人材全体のレベルアップを阻害するのである。分数の割り算など実生活では確かに役に立たない。だからといって、児童を分数の割り算もできない人間として社会に放り出すのは教育ではない。児童に対する教育は、個々の児童の将来の可能性を確保するためにこそ行うものであることを忘れてはならない)
 
 その他、厳密には政策にはあたらないが、一般的な所謂暴力団の排除(社会と経済に対するデメリットしかない完全な寄生虫である)及び性風俗産業の厳格な規制(性風俗産業が成り立つのは要するに、自然状態では出産及び子育てという人生全体を左右するリスクが一方的に女性にのみ負わされているからであり、経済的に困窮した女性を性風俗産業に従事させるのは、女性差別云々以前に労働力の搾取と同様の搾取であって、労働力搾取と同様に結果的に経済全体の利益を害する)もまた、広島のヤクザの活動として特筆される点であろう。

 この節のまとめとして、とあるインテリヤクザの言葉を紹介したい。
「経済的弱者の切り捨ての行きつく先は経済の衰退である。自己責任論は弱い者いじめを好む腐れ外道の理屈であり、ヤクザの採るところではない。ヤクザ福祉主義はイデオロギーではなく、経済学上の観点から公共部門が担うべき役割を追求する合理的経済政策の帰結である」


――――――――――


 このように広島の繁栄と市民の幸福のためならやりたい放題をやるヤクザであるが、当然ながら大小さまざまなタブー、すなわちヤクザの掟というものが存在する。

 その最大のタブーは、カープの選手及び球団関係者との交際である。ヤクザがカープを不当に支援してカープを勝たせていると疑われた結果、カープが球界追放にでもなれば、ヤクザはあっという間に広島に居場所を無くすであろう。ヤクザに許されるのは、いちカープファンとして声援を送ることだけである。

 同様の理由で、ヤクザと深い関係にある東洋重工もまた、カープ球団との資本関係を完全に断たなければならなかった。カープが球界で唯一の市民球団である所以である。このことが、球団黎明期に負債の嵩んだ球団運営会社を計画倒産させてカープの運営を新会社に引き継がせるというヤクザも真っ青の事件を引き起こしたり、事件後、たとえカープが低迷期にあっても運営会社は絶対に黒字を守らねばならないというカープの鉄の掟を生むことになったのであるが、それはまた別の話である。

 もう一つの重要な掟は、カタギとの交際禁止、特に男性ヤクザと女性カタギとの交際禁止である。ヤクザは成長はしても、個人差はあるが誰もが一定の時期を迎えると老化が止まる。あるいは老化の速度が著しく低下する。果たしてヤクザが完全な不老なのか否かは更に先の未来を待たねば明らかにならないだろう。いずれにしろ、不老のヤクザと命に限りあるカタギとの恋愛は悲劇の元である。

 だが、カタギとの交際禁止の最大の理由はメロドラマ発生の防止ではない。すなわち、確率はランダムであるものの、ヤクザの血は遺伝する。ヤクザ同士で生殖活動を行う場合、その子がヤクザである確率は、これまでの例を見る限り一〇〇%である。その危険性をヤクザ自身が認識していなかった戦後間もない時期、ヤクザの子を宿した女性たちは悲劇に見舞われた。自我が発達していないヤクザの乳幼児や胎児は怪物そのものなのである。大きくなってきたヤクザの胎児が胎内から妊婦のおなかを蹴りでもすれば、たとえヤクザの妊婦でも無事でいられる保証はない。その胎児が殺傷能力の高い特殊能力を持っていたとすればなおさらである。ヤクザの女性がある程度安全に妊娠出産できるようになるには、初期のヤクザインキュベーターが完成を見た一九七〇年代を待たねばならなかった。無事に出産を終えても、乳幼児ヤクザは、物心がついてきちんと自らの危険性を理解するようになるまで、ヤクザ保育園において、専門訓練を受けたヤクザ保育士がつきっきりで面倒を見て育てねばならない。ヤクザの育児は楽ではないのだ。こういったことが原因で、ヤクザの異性間恋愛市場は、完全に女性側に掌握されている。

 これに対し、長崎では、まともな医療の備えもないまま無責任にも「神の御意思」に委ねて、十字軍の兵士がせっせと子作りに励んで戦力増強を目指しているという。十字軍の女性兵士が妊娠出産時の事故で犠牲になるのは痛手であるから、犠牲になるのはカタギの女性である。カルトの教義を信奉する女性信者は自ら進んでこれに協力するという。これを通じて、運任せの低確率で無事に未来の十字軍兵士が誕生することを期待しているのである。ヤクザたち、特に女性のヤクザが長崎十字軍を最悪の腐れ外道として忌み嫌うのはこのためである。

 ちなみに、ヤクザとなり人間とコミュニケーションをとることが可能になったヤクザ動物のうち、哺乳類についてはヤクザ人間と同様の事情があてはまるが、卵生であれば出生にさほどの危険はない。そのため、ヤクザスズメやヤクザ鳩、ヤクザトンビは市民の知らぬところで相当数が繁殖しており、これがヤクザの空中監視網構築の礎となったのである。

 最後の重要な掟は、ヤクザが起こしたトラブルはヤクザ自身の手により始末をつけねばならぬというものである。戦後日本の経済成長が進むにつれ、浅ましい欲望に囚われた元ヤクザが日本の各地で悪事を起こす事件が、稀ではあるが発生するようになった。これに対処するため、ヤクザたちは本部直属の特務機関「お仕置き部隊」を設立した。市民に恐怖感を与えぬよう名前こそ可愛らしいが、その処置は苛烈そのものである。ヤクザは別に非暴力主義の信奉者というわけではない。

 一九六〇年代後半以降、海外のゲリラや過激派といった腐れ外道に傭兵として雇われ、あるいは腐れ外道的思想に毒されてテロに関与する元ヤクザが登場するようになると、ヤクザは非公式にではあるが、外国政府の情報機関や特殊部隊と連携をとるようになり、お仕置き部隊の隊員を海外派遣して訓練を受けさせるとともに、関係機関と協力してテロ事件等の解決にあたるようになった。テロへの元ヤクザの関与も事件解決へのヤクザの関与も完全に非公表であり、その真相は歴史の闇の中にある。

 もっとも、このようなヤクザの秘密工作は、後にヤクザが世界の表舞台に立つ際の布石となったのである。 


【続く】