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いちいちパクりだパクりだって騒いでんのは一体なんなの?



はいどうもー。正直、最近noteとかも飽きてきたんだけど、なんかムカついた時にチラシの裏代わりに気軽に書いてハッシュタグで拡散してうっかり赤の他人に読ませるような行為には便利なんで、なんかムカついた時になんか書くのには今後もたまに使っていくかもしれません。


ネットとか糞


とにかくこれ見てくださいよ。こないだダイハードテイルズのインタビュー記事がネットに出てて、それの中にTR-808のウィキペディアへのリンクが張ってあったんで、そういやこういうの調べたことないなと思ってうっかりそのリンク踏んだら下の画像の有様ですよ(画像はクリックとかしたら拡大されるはずです)。



なんですかこれ。

TR-909やTB-303のように後年のデトロイト・テクノやハウス、ヒップホップにおける再評価で注目を集めたものとは異なり、発売当初より中期のYMOやプラスチックスといった国内外のテクノポップ、ニュー・ウェイヴ、ヨーロッパを中心としたエレポップのような電子音楽シーンで積極的に使用されていた。

とか書いてあるけど、実際はTR-808が発売当時からソウルやヒップホップで合衆国のやつらに普及したんじゃなかったっけ? マーヴィン・ゲイのやつとかアフリカ・バンバータの例のあれとか。んで、こうやって俺が指摘するまで、ネットにいるやつの誰一人として間違いを指摘してないんだから、ネットとか完全に糞だろ。俺ははっきり言ってテクノとかエレクトロとかは全然知らないんで、ブラックミュージックとその周辺みたいなあたりに関する乏しい知識で書いてるけど、その俺だって最低限の知識程度でこれくらいは知ってるんだから、ネットにいる奴らなんてそれ以下ってことだ。


マーヴィン・ゲイのやつ(1982年)


アフリカ・バンバータの例のあれ(これも1982年)


「後年のデトロイト・テクノ」とか書いてあるのも訳わからねえ。デトロイト・テクノのこれだって1981年だ。


ネットの奴らはどうせ知らないだろうから教えてやるけど、ウィキペディアには、左の横のほうに、当該ページの他言語版に1クリックで飛べる機能がある。なのに、ネットの奴らは、その1クリックの手間で英語版に何書いてあるかすらチェックしようとしないくせに自分はネットのプロみたいなツラしてんだから、もうこの際、みんなでネットに書いてあることなんか基本無視したほうがいいんじゃねえの? ちなみに、試しにTR-808の英語版ウィキペディアのページに1クリックで飛ぶと、俺が乏しい知識で書いた程度のことはちゃんと書いてある。

ここで俺は、やっぱりネットを無視するのはやめて、ネットじゃなくて日本語を無視した方がいいんじゃねえかとしばし悩んだんですけど、日本語を無視するとかなり日常生活に支障が出るので、日本語ではなくネットを無視していきたいと思う所存です。

それに比べて業界の奴らときたら、どうせ嘘か間違いに決まってるネットの書き込みにいちいち反応して醜態を晒してる。本当に糞どうしようもないな!

群像新人文学賞「美しい顔」関連報道について. 及び当該作品全文無料公開のお知らせ(PDF)

「著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません」みたいな、完全に意味不明で筋が通らない文章で、業界の奴らは一体何と戦ってるんだ? 他人の作品を無断でパクったら著作権だとかで金のやりとりの問題は発生するけど、だからといって、著作権侵害は、盗用とか剽窃みたいな表現で作家や作品をディスる根拠にはならないだろうが!

本当にこの程度のこともわかんないの?


アーティストの自覚があるなら堂々とパクるだろ普通!


そもそもが、作者がパクろうと何しようと、作品の価値はできあがった作品の出来映えとか面白さが全てなんであって、パクりがあるからという理由で作品の評価を下げるべき根拠なんか一切ない。パクりがあるとか言って非難してる奴らは、無駄にオリジナリティを持ち上げてるような奴らであって、そんな奴らのたわごとは一切聞かなくていいと俺は思うし、そんなネットの声を相手にするのは本当に有害無益だと思いますよ。

ちょっと考えればわかるだろ? サンプリングすることで曲の価値が下がるか? サンプリングで出来た曲はオリジナリティを欠いていて、サンプリングがない曲よりも価値が低いのか? オリジナリティを欠いていてごめんなさいみたいな態度の表明としてサンプリング元に著作権的な許諾を得ないとサンプリングできないの? 全然違うだろ。著作権的に許諾とか取るのは著作権侵害で損害賠償みたいな金のやりとりが発生するのを避けるためで、著作権的に許諾を取ったかどうかで曲の価値が変化することはないだろ! さっき引用したPDFの内容なんか、この程度のこともわかってない業界の奴らが書いてることだから、作者や作品を守ろうとしてるんだろうけど、結果的に全然守れてない。

だから本当に業界が作者や作品を守りたいんなら、はっきりと、パクりは何ら作者や作品をディスる根拠にはならないって態度を堂々と表明すべきなんであって、作品が面白いんならオリジナリティのあるなしなんか糞どうでもいいって言ってやらなきゃならないんだよ。本当に分かってる奴らっていうのは、昔から、自分のやってることにオリジナリティがあるかどうかなんてちっとも気にせずに好き勝手にやって、オリジナリティを捨てて見せることで逆にアーティストの偉大さとか作品のすごさとかを分からせてるんですよ。これは別にサンプリングに限ったことじゃない。


54-46 Was My Number - Toots and The Maytals


はいこの曲。これは別に何もパクってません。俺は詳しく知らないけど、ジャマイカのロックステディとかスカなんかからレゲエが生まれる黎明期の曲で、1968年に「54-46 That's My Number」っていうタイトルでリリースした曲を翌年に「54-46 Was My Number」ってタイトルで同じアーティストがアレンジ再録音して発売したもんになります。んで、これが英国のレーベルからも発売されてて、ジャマイカの外でヒットした初のジャマイカ人アーティストの曲になりました。英国ではモッズとかの時代からジャマイカ系移民のDJが回すロックステディで踊るみたいなカルチャーがあったし、NYでもヒップホップ誕生よりも前にジャマイカ系移民がサウンドシステムこしらえてトースト皿をDJが回してMCが煽るみたいなことが先に行われてたのがヒップホップやラップの誕生に影響を与えたりしてたので、この曲は英国やNYで音楽聴いてた当時の奴らには広く知られた曲だったはずです。

んで、当時の天才アーティストであるジミ・ヘンドリックスは何をやったか。


Jimi Hendrix - Who Knows live Winter Festival for Peace 1970


本当はアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」(1969年の12月に組んだばかりのトリオで出演した、その年の大晦日から1970年の元旦にかけてニューヨークにあるフィルモア・イーストで行われた年越しライブの録音)の一曲目として知られてる曲なんだけど、アルバムの音源がYouTubeにないので、音があんまり良くない別のライブ(70年1月28日)の音源を張ったんですけど、まあそういうことはどうでもよくて、大事なのは要するに、ジミ・ヘンドリックスは堂々とさっきのレゲエの曲のリフをパクってるんですよ。キーを変えてるけど。このライブに来てた客は、基本、わざわざ大晦日の年越しにジミ・ヘンドリックスのライブを聴きに来るほどの音楽聴いてるNYとか在住の奴らですから、当然、さっきのレゲエの曲を聴いたことがある客も結構いたはずです。そんな客であることを分かった上で、ジミ・ヘンドリックスも堂々とパクってる。んで、その結果はレゲエとは全然異なるブルーズのジャム曲になっててジミ・ヘンドリックスの代表曲の一つになってるし、その後50年近く経ってるけど、ジミ・ヘンドリックスがレゲエの曲をパクったみたいな非難をする奴なんか一人も見当たらない。そんなもん別にパクりだ何だと非難するにはあたらないという価値観なんでしょう。ブルーズ発祥のブラックミュージックなんて、そもそもアーティストが互いに無断でパクりパクられを繰り返してそれがストーンズやレッドツェッペリンとかにも受け継がれるんですし。アーティストのやるべきことっていうのは、オリジナリティなんかをわざわざ表面に押し出そうとするみたいなことではないって、あいつらみんな分かってる。んで、ブルーズ有名曲丸パクリの曲もツェッペリンがやったらツェッペリンの曲になる。だから、英語でも検索してみたけどやっぱりパクりとかなんとかみたいな非難は見当たらないです。

要するに、パクりなんてクリエイトの観点から見たら原則別に何も問題ないです。パクりが非難される場合というのは、作品の全部とかほとんど全部を丸パクリしていて、本当は何もクリエイトしてないのに他人の作品を自分がクリエイトしたみたいな嘘をつくような、かなり例外的な場合に限られるんじゃないですかね。

それなのに、なんでネットの奴らとかはオリジナリティを無駄に持ち上げてパクりをヒステリックに叩くのかっていうと、結局、タルサドゥームみたいなやつらが、商売の都合でクリエイターに作家性がどうのこうのみたいなあやふやな評価基準を適用して、あわよくば巨匠商法やろうとしてるからでしょ?


今も増える巨匠商法の被害者



上記リンクの記事はまあまあ良いこと書いてるけど、時かけとかで良い映画作った奴が、なんでその後どんどん下り坂なのかってことについてぜんぜん分析が足りてない。脚本家使わなくなって監督が自分で脚本を書くようになったのがまずいっていう指摘はしてるけど、本当に映画の未来を考えるなら、なんで一度か二度は過去にちゃんと映画作りのスキルがあることを示したはずの奴が不合理にも脚本家使うのを止めちゃったんだってことを考えないとだめだろ。作品の出来映えからして映画制作能力が客観的に落ちる一方なんだから、そんな奴に「作家的深化」なんてものがあるわけない。なのに、何で評論家どもは作家性作家性って、作家性とは何かが全然明らかじゃないのに作家性って言葉にこだわるんだ?

要するにあれでしょ。いかにもタルサドゥームの手先みたいなプロデューサーとかを名乗る商売人が九〇年代後半から駿を巨匠だとか作家性だとかの言葉を使って持ち上げる商法を始めたら、単なるナウシカを日本に置き換えたような自己模倣にも失敗してて色々欠点だらけのもののけ姫とか宅急便を自己模倣した上によく分からない要素を付け加えてダサくなった神隠しとかが興行的に大当たりして、駿は巨匠なんだから一回見ただけじゃ映画の意味がよくわかんなかったのは駿じゃなくて観客である自分の責任だみたいに思い込んだ奴が大量発生してリピートするようになった結果、何度見てもやっぱり意味がわかんないところが結構あるのは駿が巨匠で巨匠なんだから駿の思想とかが凄く偉大すぎて自分では理解できないからだって決めつけて駿を更に神格化するみたいなことを引き起こしたわけでしょ? んで、一度巨匠商法が当たると、「単にもののけ姫が映画的に失敗してるから分かりにくいんじゃないの?」みたいな指摘を平然とするような俺はガキの頃から社会に居場所がないわけですよ。

んで、駿もいよいよ寿命だって感じになってきたんで、業界のタルサドゥームは駿が死んだ後でも巨匠商法を続けるための駿の後釜を作んなきゃならないって考えて、時かけとかでそれなりに実績示した奴を今度は駿の後継者候補だって持ち上げようとするから、実力ある奴だったはずなのに、色々勘違いしちゃってトータルな映画作りのスキルが低下する。

考えてもみてくださいよ。業界の奴らって、巨匠は自分で監督も脚本書かないといけなくて文豪みたいになんか色々深遠な思想みたないのをひねり出さないといけないとか、なんかテーマみたいなやつやオリジナリティを打ち出さないといけないとかそういうのを打ち出すのが作家性だから良いとか勝手に決めつけて巨匠を作ろうとしてるけど、その決めつけに具体的な根拠や理由あります? ないでしょ? それなのに、あほの評論家どもも、思想だとかテーマだとかオリジナリティだとかの、映画の面白さや出来映えに全然関係ない要素をなぜか無駄に褒めるようになるし、映画を作る奴まで、なんか自分でテーマだとかオリジナリティとかをアピールしなきゃいけないんだって思い込んで一人でうじうじ大したことない思想みたないのをこねくり回した挙げ句、意味もなく脚本家を使わなくなる。こうやって、時かけ作ったやつが客観的にスキル落とすみたいな巨匠商法の被害者が生まれるんです。

ここまで言っても分からない人は、こう言えば分かります? 思想だとかテーマだとかオリジナリティみたいなもんを意図的に前面に押し出してアピールしようとしたら、結局、思想だとかテーマだとかオリジナリティみたいなもんが表面的な要素に堕するだけじゃないですか。そんなの映画が駄作になって当たり前ですよ。そんなことをするせいで、なぜか登場人物が思想だとかテーマみたいなのを不自然なセリフで直接言及して説明したりとかのダメ映画要素がどんどん盛り込まれて、不自然なセリフや行動のためにプロットやストーリーラインもおかしくなる。そういう思想だとかテーマみたいなものは、あくまで背後の要素として、登場人物の行動原理とか性格を支える要素だからこそ、登場人物の行動やここぞの決断を通じて間接的に大事なことが示されるっていう形で、映画の質を高めるんでしょ? なのにそういうことをせずにアシタカみたいなやつともののけが全然かみ合ってない会話をする中で唐突に「生きろ……」みたいな説明セリフをしゃべらせるようになって映画が完全にダサくなってるのに巨匠とか言われて得意になってる駿が全然反省しないから、巨匠商法は許しがたいんですよ。


日本は見捨ててネトフリでも見るわ


まあ駿を引き合いに出したけど、巨匠商法の被害なんてもっと昔からあって、黒沢だって橋本忍びとかの脚本家チームを使ってたころのほうが全然映画が面白くて巨匠巨匠って持ち上げられると映画がつまんなくなってるんで、こういう巨匠商法は日本じゃもう根絶できないと思います。

んで要するに、この巨匠商法と同じ発想で、小説家とかみたいなやつらも思想だとかテーマとかオリジナリティみたいなもんを打ち出さないといけないみたいに思われてることの裏返しで、パクりがヒステリックに叩かれるわけですよ。

こういう風潮が続くんで、もう日本のあらゆる分野のクリエイトの可能性は先細りで、ノーマークの新人がいきなり超面白い作品を生み出したみたいな偶然が発生するか、そうでなければ大手の配給や大手の出版に最初から頼らないゲリラ的手段をとるっていう方法でしか日本では面白い作品をクリエイトして届けるみたいなことは無理になってく一方だと思います。

それに対して、Netflixなんかは、全然巨匠商法と逆のことをやって、とにかく面白い作品を作ったら客に直接届ける商売だから、たとえばストレンジャーシングスなんかも個々の要素なんか全部どっかで見たものばっかりなのに、それでも、既存の複数のアイディアの組み合わせの妙みたいなので出来映えが良いんで、俺みたいなおっさんも「ダンスパーティーに行けてよかったなあ」みたいにボロボロ泣いて感動するんですよ。

つまり俺が言いたいのは、スピルバーグが巨匠って持ち上げられたいからって理由で脚本家使うの止めたり登場人物にテーマに直接言及する説明セリフをしゃべらせたりするかってことですよ。スピルバーグが自分の思想やらオリジナリティみたいなもんを自慢たことがあるかよって。ソーとサノスが日本映画みたいにお互いの思想を叫んで説明しながら殴り合ったらどんだけ間抜けになるか想像してみてください。結局、巨匠商法みたいな不条理がまかり通るんなら、そういう国のクリエイトにはさっさと見切りをつけるしかないと思います。



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