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やっぱ人間愛されてナンボっすわ




はいどうもー! 最近なんかいきなりクッソ寒くなりすぎだ! 寒さに負けないように、今回はがんばってテンションあげてくぞ!

てか何で寒い季節になると人恋しさみたいなのが無駄に突き刺さってくるんでしょうかね。あれほんと迷惑。ぶっさされ過ぎてマジつらい。俺なんか刺突されまくって日々ブリーディングハートだ。そういう過剰バックスタブみたいなのは今すぐやめてほしい。そこまでされるようなこと俺なんかやった? 全然身に覚えがないんだけど。


……いや俺だってほんとうは、他人に言われなくても自分で分かってるんですよ。俺がこんな場所でぐだぐだ何を言ってようと俺なんか所詮イキりパルプ太郎みたいなもんにすぎないんだって。だけどね、だけどね!? こんな俺でもぶっちゃけ愛されたいんだよ! イキりパルプ太郎だからって見捨てないでくれよ!




というのが本心であったとしてもだ、そういう発想自体が根本的に他力本願であり全くどうしようもない。だから俺はそういった発想は捨てて自力でなんとかする。今回は太郎問題についてだ。


Tarou Problem


あれですよ、しばらく前から、「イキりなんとか太郎」みたいなやつが各種メディアに現われては消え、現われては消えってしてるじゃないですか。過去のとある作品でなんとか太郎みたいに呼ばれたやつの変奏版がまた別の作品に現われてヴァリアントなんとか太郎みたいなありがたくない呼称で観客や読者から呼ばれるやつ。そういうのが何度も繰り返し現われる。

それでね、俺はほんとうに本気でみんなにこの太郎問題を一度真剣に考えてみてほしいと思ってる。なんとか太郎シリーズの新型が飽きもせずにダラダラ登場し続けてるっていうことが何を意味してんのか、ってことを。で、俺は思うんだけど、これって現在のクリエイティブの現場に深刻な機能不全が発生してるってことじゃないですか?

つまりこういうことです。普通に考えて、作品の主人公が観客や読者からイキりなんとか太郎呼ばわりされてヘイトを買ったり、あるいは笑いものになるなんて、作品としてありえないほど致命的に失敗してるじゃないですか。そういう主人公がブザマな失敗をしでかして笑いを取るギャグ作品とかでもない限り。そういう例外をのぞけば、主人公としての魅力がマイナスの太郎をあえて意図的に主人公に据えるやつなんか常識的に考えていないはずです。笑いも取れないただ寒いだけの太郎が主人公じゃ、主人公が活躍しようと何しようと観客や読者にとってはどうでもいい興味の対象外扱いされるから、どんなに凝ったストーリーを考えたところで、その面白さは観客に伝わらないって結果になるのは明白。

まあもしかしたら、意図していないにもかかわらず、あほプロデューサーの現場への介入みたいな不幸な要素が重なった挙げ句、太郎が主人公になってしまうような、現場からしたら「こんなはずじゃなかったのに」みたいな珍作が誕生して語り草になるみたいなことは起こりうるのかもしれません。かもしれませんけど、そういう失敗事例が生じたんだとしたら、普通は「主人公を太郎にしたらダメ」みたいな教訓もまた生まれるはずで、そういう教訓とかノウハウみたいなものが生まれるからこそ、太郎が主人公みたいな作品は過去の笑い話として語られる存在になるはずじゃない?

なのに現実の世界は、俺らの想像を超えるレベルでイカれてる。常識で考えたら起こるはずのないペースでの新型太郎のロールアウトが当たり前のように続いてて、案の定発生するのは、太郎をコケにするやつとフランチャイズの既存ファンとの間の不毛な争い。現実まじファックですわ。最近じゃ太郎を見かけても「ああいう系の作品はそういうもんだ」みたいに逆に自分を納得させなきゃいけないみたいな諦めの境地みたいなもんすら暗黙の了解になりつつあるような気がする。

まあそんなの批判したところで何の意味もないのかもしれない、ってことくらいは俺も分かってる。俺みたいなうぬぼれてるだけのイキりパルプ太郎に分かることが現場のやつらに分からないわけないもんな。俺が口すっぱく「太郎が他人の眼にどう写るか少しは考えろ」って言ったところで返ってくる返事は「んなこと分かってるよ!」だろう。けど新太郎発生は続く。要するに主人公を客観視して太郎化を防止するってことを考える余裕すらないくらい現場は追い詰められてると推測するほかない。なんだよこれ。業界全体が狂気のシステムに支配されてんぞ。タルサ・ドゥームのやつらはカタストロフィック破滅が起きても気にしないのか?

だけど俺は諦めるつもりはない。俺はあえて断言する。主人公を太郎にするのはクリエイターとして絶対やっちゃだめだ

なんでか。主人公太郎の発生で誰が一番傷つくかってことを考えてください。太郎のそしりを免れないような主人公が登場することによって一番傷つくのはフランチャイズの既存のファンじゃないですか。主人公が太郎になってるせいで作品の評価が下がる、あるいは作ったやつが笑いものにすらなる、そういう事態にとどまるんであればそれは(可哀想な側面はあるとしても)クリエイターの自己責任として甘受しないといけない。けど現実には太郎の被害は既存ファンにもおよぶんですよ。せっかく楽しみにしてた新番組の第一話に太郎が出てきたときの落胆、「太郎だ太郎だw」ってからかう声が外野から聞こえてきたときの、あの寂しさと恥ずかしさと、そして怒りがない交ぜになった言葉にならない感情がわき上がってくる瞬間を想像してみてください。フランチャイズを愛してくれる既存ファンってほんとにありがたいんですよ? だけどそういうファンだって人間なんだからなんでもかんでも盲目的に擁護してるんじゃないんです。まともな人間である以上、ファンであっても理性の部分では太郎問題を認識してる。だけど感情の部分では、フランチャイズ愛があるからこそ、擁護したくなる。そうして太郎に眼をつぶって擁護を試みても現実は非情、そんな擁護はまず成功しない。フランチャイズが太郎扱いされても仕方ないっていう残酷な現実を前にして、作品が貶められると同時に、そんなフランチャイズのファンである自分自身もけなされてるような気持ちが……っていう流れで、太郎がもたらす理不尽への怒りと屈辱の余りフリークアウトするやつも出てくれば、悲しみとともにそっと作品から離れてくやつもいるでしょう。露出度高いキャラが温泉回やら水着回やらで露出してくれればそれだけで満足ってやつもいるかもしれないけど。

とにかく結論。太郎を主人公に据えるのは、既存のファンの愛に甘えて既存ファンを何重にも裏切り傷つける行為だ。だからクリエイターとしては決して、決して、許されない。わかったか!




……まあ正直ぶっちゃけるとね、俺自身といえば太郎が発生するようなフランチャイズには一切興味ないし、ガチャ課金なんてこの地上より永久に消え去ってしまえと思ってます。だけど俺はそれでも、太郎呼ばわりされることの悲しみを知ってる。だから俺は、作品を笑ったりけなしたりする側ではなく、太郎によって苦しめられる人と共に太郎の発生を心から悲しむ側の人間でいたい。これは理屈の問題じゃない。パルプとは何かっていう自分の考えに直結する俺のアティチュードの問題だ。パルプの基礎たる人間くささとはラブとリスペクトに根ざしてるからだ。だから優れたパルプの主人公は、表面的にはそう見えなくても、分析してみればラブとリスペクトに根ざした人間くささによって造形されてる。

いやほんとにね、俺も含めての話だけど、ちゃんと自分を客観視するクセをつけないとダメだわ。太郎を見つけて太郎だ太郎だって笑いものにするのは簡単だけど、はたから見りゃ、そうやって太郎を馬鹿にしてイキってるやつもまた太郎ですよ。ほら昔の、ニーチェ? だっけ? も言ってたじゃん。「あなたが深淵に『こんにちわ』すると深淵もあなたに『こんにちわ』って返してくるよ! あいさつってだいじだね!」みたいなこと。それと一緒ですよ。太郎を叩くのは太郎の同類だけ。俺らがやらなきゃならないのは、前向きに建設的に、太郎を乗り越えてその先に進む方法を考えることだ。

てことで、俺は真剣に太郎化ヴォイドアウトを阻止するための具体的な方法について考えたいと思います。


愛を取り戻せ!


とは言ってもね、こういうのは「言うは易し」みたいなのの典型ですよ。どうすれば主人公の太郎化を避けて愛される主人公になるのか。自分の作品って、どうしても客観的には観れない部分がある。だから他のやつが作った作品観て「あっ太郎」ってすぐ気付くのに自分の作品が太郎だってことには気付きにくいのが普通。それに「他人にどう見られたって構うもんか!」みたいな人間としての意地ってのはカラテの根源そのもので人間のエゴに深く根ざしてるし、他人の意見なんか聞く必要ないってのは、少なくともパルプを書く上ではひとつの真理だ。だけど俺がここで言ってるのは、他人の意見に従えってことじゃなくて、他人の価値観をリスペクトする視点を持てってことです。もし自分が観客や読者の立場だったら、って受け止める側の受け取り方に思いをはせる。そういうことは絶対に必要だと俺は思う。

だから、あくまで俺の考えでしかないけど、観客や読者がどういう印象を抱くか、ってことについて、意識的に一切の先入観をなくす努力をしないといけない。「主人公が負けるところなんか観たくないでしょ?」みたいな安易な決めつけに基づいて主人公に無双させるのは太郎化の危険性を高めると思うからです。

それに主人公に自分の価値観を投影するっていうのも危険。「あたしが好きな属性を主人公にいっぱい盛り付けたら読者も好きになってくれるはず」っていう発想は残念ながら太郎化一直線の危険が極めて高い。「あたしの価値観を否定するつもり!?」ってすぐにそういう過剰反応するのはやめろ。俺が言ってるのはそういうことじゃない。最初から観客や読者に100パー全力で愛されようなんてことを狙って、超難読ネーミングにはじまり美形で最強で派手で格好いい必殺技を持ってて当然のごとくモテて少しおっちょこちょいなところはあるけどそこもまた魅力でどんな苦境においても判断を誤ることがない知性によって考え出した作戦は虐げられた人々を逆転大勝利に導きとなんでもかんでも思い通りに実現して悪を滅ぼし英雄と讃えられ……っていうプラスポイントを増やしていくばっかりだと、逆に主人公が悪い意味でどんどん人間離れしてって、観客や読者には、特に切実な動機みたいなものを持たない機械的な印象すら与える主人公がその場その場の思いつきで好き勝手に振る舞ってるようにみえてきて、主人公から非人間的な不気味さすら感じるようになる。主人公の中にラブとリスペクトの欠落を観客や読者は感じ取り、不気味に思うのだ。んで、そういう不気味さを感じ取った観客や読者が無意識のうちに心理的な防衛機構を働かせちゃった結果……「太郎wwwwwww」って、笑いで不安を克服するようになっちゃう。これが完全にまずい太郎だってことがみんなも分かるでしょ? 

挙げ句、好き勝手に振る舞ってるようにみえる主人公が観客や読者から「それって人間としてどうなの?」って思われるような行動に出て、それなのに主人公が他人の反応に無自覚なようだと、しまいには主人公は愛どころかヘイトを買うことになる。ティピカル太郎の誕生だ。タンク職でもないのにヘイト買ってどうすんだ。

「じゃあどうすりゃいいんだよ! 読者に媚びを売りまくれっていうつもりか!?」だから違うって! 問題はですよ、ついつい開幕冒頭から100パー全力で愛されなきゃってどうしても思い込んじゃう(仕方ねえよ。人間みんな愛されたいもんな)、その思い込みです。その思い込みは、厳しいこと言わせてもらうと、観客や読者のことを、主人公のことを好きになるか嫌いになるかの二者択一しかしない存在だという思い込みを前提にしてて、ちゃんとリスペクトしてないと思います。

観客や読者は、何度でも言うけど、主人公に美点があればあるほど「Like」を押しまくるみたいな機械的反応をする存在じゃない。登場人物の、主人公の人間らしさに対して(あるいは人間らしくなさに対して)、人間らしい反応を返す存在。それが観客や読者というもんだ。登場人物が人間じゃなくてヨーカイだったり宇宙人だったとしても同じだ。観客や読者といった存在は、ヨーカイや宇宙人の中にですら無意識のうちに人間らしさを見出そうとしてしまう。だから、主人公の美点を盛ればあっという間に100パー全力で主人公を愛するようになる人間なんてものはそもそもいないので、そんな観客や読者もまた存在しない。誰かを、何かを好きになるプロセスっていうのをちゃんと考えないとだめだ。恥ずかしがらずに、ラブとリスペクトに真剣に向き合え

じゃあどうすればいいのか。いいですか、要するに押してだめならひいてみろです。つまり、主人公が愛されるために最も強力な武器とは


欠! 点!


これ。欠点。俺のみるところ、こいつがまじで強い。状況に応じて柔軟にアタッチメントを変えて「葛藤」とか「苦悩」とかにカスタマイズして使っても当然強いけど、ベース武器は「欠点」だ。色々試し撃ちしてみたけど、俺の中での最強武器の地位は今のところ揺らぐ気配はない。

「欠点って、何で欠点があれば愛されるんだよw あれか? ドジなのがカワイイとかそういうやつか? そんな武器ただの産廃だろw」っていう声が聞こえてきそうだけど、何の工夫もなしに使っても常に最強な最強武器なんてない。そんな最強武器があると思い込むやつは強い強いって話題になったスナ握っただけの芋キャンパーになるだけだ。いうまでもなく俺は芋キャンパーじゃないので、運用の工夫と立ち回りの見直しもあわせた上で、欠点が最強武器だと結論した。だから俺がこれから話すのは、欠点で無双するための運用の工夫と立ち回りについてだ。今回も『エイリアン2』を例に説明する。


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This time it's war.(今度は戦争だ)

また『エイリアン2』かよ、って思う人がいたらごめん。だけどこの作品、分析すればするほど、シンプルなようにみえて実は難しい課題をさりげなく克服しつつ面白さにつなげてる。それでいて観客には全然そういった技巧を見せつけることなくむしろ観客に技巧を意識させないようにして、100パーエンターテインメントに振ってる。ほんとうに見事すぎて感服する。俺にとってあるべきパルプの理想型のひとつです。

で、「欠点」をどう使用するかについて話を戻すと、運用のコンセプトは「自分からは積極的にラブを求めにいかない」っていうのが根幹です。現実問題として、観客や読者の嗅覚は実際にはまったく油断ならない鋭さなので、クリエイター側がラブほしさにちょっとでもあざといマネをすると、観客や読者はすぐにそういう下心を察知して、クリエイター側の狙いとは逆の反応を示してしまいます。だから、そういう強敵を前にして不用意な立ち回りをするのは絶対禁物。欲を出さないようにして、細心の注意をもって立ち回らないといけない。そしてなおかつ、「欠点」の強みを最大限生かさないといけない。そうして、直接的なラブじゃなくて、ほんのちょっぴりでもいいから「共感」を集めてスコアを稼ぐ

で、具体的な立ち回りとしては、おおむね以下のような流れを想定する。

1 主人公に、観客が共感できる欠点を与える(ただし、主人公が欠点をわざとらしくアピールするみたいなことは避けること)。

2 主人公はその欠点を自覚し、かつ、その克服をめざした行動を起こす。

3 欠点には、ストーリーのラストで倒すべきラスボス等の最大の敵や最大の困難と密接な結びつきを持たせる。


なぜこの立ち回りが強いか?というと、それは、観客や読者の無意識とか深層心理のレベルの心の動きをこっちで積極的にコントロールできるからだ。その仕組みはこんな感じ。

観客や読者、つまり人間らしい反応を返す生きた人間ってのがどういうもんかを考えてみる。俺も含めて、人間なんてもんはみんな欠点だらけだ。同時に大抵の場合、自分でその欠点を自覚してる。欠点だらけの自分がつらい。欠点だらけの自分から眼を逸らして逃げたい。なのに他人に対しては自分のことは棚に上げて偉そうに「自分の欠点をウジウジ悩むくらいなら、さっさと欠点を克服しろよw」みたいなことを平気で言うくせに、自分自身ときたら一向に自分の欠点に向き合わない。だって仕方ないじゃん。自分の欠点に向き合うなんて、言うほど簡単じゃねえんだよ!

んで、そういう観客や読者が、人間らしい、共感できる欠点を抱えた主人公に、「俺はこんな深刻な欠点を抱えて悩んでるんだぜー助けてー」みたいなわざとらしいアピールをする芸術気取りバカじゃなくて、欠点を薄々自覚しつつも、どうしても無意識のうちに欠点から眼を逸らして逃げようとしてしまう主人公に出会ったとき、観客や読者は大なり小なり、その主人公に「共感」を抱かずにはいられない。

そして主人公が、自らの欠点に向き合ってそれを克服しようと行動に出るとき、自分の欠点に向き合うことの難しさを無意識のうちに知ってる観客や読者は、どうしても無意識のうちに主人公の行く末に大きな興味を抱いてしまう。一見かんたんにみえる主人公の行動が、実は偉大な行為であることを無意識のうちに悟ってしまうからだ。こうして、美点を積極的にアピールせずとも、主人公の最大の隠れた美点、目に見えないが主人公の内に宿る強い意志ってのが観客や読者に自然に伝わるので、うっかり観客や読者は主人公に惹かれる。ここまでくればもうこっちのもん。

そうして観客や読者の興味関心をばっちり引いた主人公が戦いの末、ラスボスを倒して欠点を克服する時、そこにはクソでかカタルシスが発生する。主人公のパーソナリティとプロットが強力に噛み合ってストーリーの推進力を生み出すからだ。もう気づいた人も多いと思うけど、この立ち回りの真の強みは、単に主人公を造形するだけでなく、主人公がどんなやつかという要素と物語のプロットを噛み合わせて、一本筋の通ったストーリーを推進できるところにある

そして付け加えると、主人公の欠点は別に一つだけである必要はない。最大の欠点の他にもいくつかサブ欠点を与えることによって、メイン欠点が生み出すメインストーリーラインのほかに、サブ欠点が生み出すサブストーリーラインも効果的に生み出すことが可能だ。

こういう仕組みで、欠点システム(今思いついた名前)は、主人公にプラスの属性を盛ってラブを集めるなんてことは一切しないままでも、物語のクライマックスで観客や読者の大声援を集めることが可能だ。声援とはつまりラブとリスペクトだ。

だいたい分かってもらえた? それじゃいよいよ、『エイリアン2』における欠点システムの実践例をみてみましょー。


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(アティチュードが仕上がりつつあるリプリーを捉えた一場面)

(色味とかが完全にサイバーパンクで80年代でチョーかっこよくない?)


俺が欠点システムを独力で生み出したのでは当然無く、『エイリアン2』とかのクラシックの分析を通じて気づきをまとめたもんにすぎないけど、それでもかなり有効なノウハウや方法論として使えると思う。俺はイキりパルプ太郎だから容赦なく自画自賛する。それはさておき、ジェームズ・キャメロンは実際に、物語のはじめにおいて、主人公であるはずのリプリーから徹底的に美点を取り除くということを意識的に実行してる。本当は美人でホットなはずのリプリー役シガニー・ウィーバー(あのリドリー・スコットですら初代エイリアンのクライマックスでシガニー・ウィーバーを意味もなくホットな下着姿にひん剥く衝動を抑えられなかったほどだ)を美人に映すことすら徹底的に拒否してて、リプリーは変なモジャ頭のおばはんにしかみえない。そのせいで、他の映画でみかけたホットなベイブについて「えっあれってシガニー・ウィーバーが演じてたの!?」って後で知って驚くという事態がちょくちょく発生する。たとえばこれ。



日本語字幕の予告編で良いのがなかったから英語版で許してくれ。とにかく、『ギャラクシー・クエスト』もまた、まだ観たことがないやつは今すぐ観るべきナインティーズの傑作だ。ラブとリスペクトで出来たパルプとはどういうもんなのかの見本。めっちゃ超楽しいぞ。意識的に分析してみれば、この作品でも欠点システムとその応用(個々の人物の欠点のみならず「仲間との絆」のマイナス状態からプラス状態への移行を主要なストーリーの要素にしてる)が行われてるのが分かるはず。ちなみにこの作品のシガニー・ウィーバーは、その美貌ゆえに何年たってもステレオタイプなブロンドキャラ扱いされるという悲劇を背負った人物を演じる。美点に皮肉をかけて欠点にするっていう仕組みに注目しよう。

では『エイリアン2』に話を戻して、ジェームズ・キャメロンがリプリーにどういうメイン欠点やサブ欠点を与えてて、欠点がどう登場人物の配置やストーリーのアイディア、さらにはストーリーの構成に結びついてるかをみてみましょー。まずはメイン欠点。


エイリアンに対する恐怖

「んなことくらい言われなくても分かるよw」って思うでしょ? けどこのメイン欠点、単純にみえて実はすごく巧妙。①観客が共感できるか、②主人公が敵に立ち向かう理由として説得力がある動機を生み出すか、の二点についてハードルをクリアしてる。

どういうことか。①について、たとえば自分のオリジナル作品に登場するオリジナルモンスターへの主人公の恐怖感という欠点を設定した場合を考えてみてください。考えてみると、実はこっちの欠点は観客の共感を呼びにくい。観客はオリジナルモンスターのことを良く知らないので、未知のオリジナルモンスターに対する恐怖を持ってないからです。結果「何がそんなに怖いの?」みたいな共感とはかけ離れた反応になるし、②にも関連して「そんなに怖いモンスターがいるならさっさと逃げろよw」みたいに言われちゃう可能性も出てくる。

だけど『エイリアン2』には幸運なことに、偉大なる前作『エイリアン』があった。エイリアンがどれほど恐ろしいかは、あのチェストバスターが腹から出てくる衝撃のシーンを知ってる人間なら誰でも一発で理解する。だからリプリーがチェストバスター死の悪夢にうなされる時、観客は誰もがリプリーに共感せざるを得ない。

そして②について。エイリアンによって植え付けられた恐怖は目を背けようにも背けられない。恐怖から逃げようとしても逃げられない。エイリアンがいない安全な環境にあってもなお、リプリーを蝕む。普通の人間なら酒浸りになったり狂気に陥ったりして終わりだったかもしれない。だがリプリーは違った。あえて恐怖の源に立ち向かうことを選択した。それが彼女のエゴが下した決断だったからだ。強い。アツい。まさにカラテだ。太郎とは一線を画するパルプの本質がここにある。だから、「何でわざわざまたエイリアンがいる星に行くんだよw」みたいなダサいつっこみをするような観客は一人もいなくなる。見事だ。

ここで注意。安易に主人公を強くしすぎないこと! 強い異能とかをもってガンガン敵を倒すような主人公が「俺のエゴがそう決断したから」みたいな動機で殺しまくると、観客や読者には主人公のやってることがただの横暴にしかみえなくなり、太郎化の危険が超高まる。色々工夫が必要。開幕冒頭シークエンスでザコを殺しまくって強さアピールする主人公と、ザコの群れを鼻で笑って無視することで秘めたる強さを予感させる主人公、あなたならどっちの主人公に興味を持つ? 主人公を紹介するシークエンスの構成のほかにも、主人公を苦しめ時には敗北に追い込む強敵とか、主人公が強いだけじゃ打開できない状況とか、秘めたる動機だけど秘めすぎてない動機だとかそういったものを細心の注意をもって設定する必要がある。クリエイターの腕前の差はこのへんに如実に表れる。れんしゅうしろ。毎日だ。

話を戻すと、ばっちりメイン欠点が決まればほぼ必然的にメインストーリーも決まる。メイン欠点の克服とはすなわち、主人公にとっての最大の試練だ。簡単に克服されちゃったら盛り上がんない。だからリプリーがエイリアンへの恐怖の克服を目指して、エイリアンとの戦いを通じてもがき、抗い、傷つきまくりながらも前進する、これがメインストーリーになる。そして最後にリプリーが倒さないといけないのは、そんじょそこらのザコエイリアンではなく、最大最強のエイリアンじゃないといけない。こんなストーリー、アツいに決まってんじゃん!

というふうに、主人公のメイン欠点をうまい具合に設定するだけで相当にアツい主人公とアツいメインストーリーが生まれ出でる。すげえ。俺自身が今書いてて言葉にならないヤバみをあらためて実感してる。欠点強すぎ。そのうち絶対nerf来るわこれ。

だがここで、さらに効果的にサブ欠点を設定できれば、パルプのアツさはますますヤバくなる。強武器厨と言われようとなんと言われようと、nerf来る前に遠慮なくじゃんじゃん使うべし。


サブ欠点その1:母親失格

別にリプリーが客観的に母親失格ってわけじゃないです。シングルマザーのリプリーは、食ってくために長距離航海する宇宙船ノストロモ号の乗組員というガテン職でがんばってた。りっぱなもんだ。そしてがんばって初代『エイリアン』を生き延びた。

ところが『エイリアン2』の冒頭まで、うっかり何十年も冷凍睡眠で過ごしちゃった結果、娘のほうが先に自分よりも年とって死んでしまったことが判明する。娘のために働き、エイリアンを撃退したことが全部無駄だったのか……母親を失った娘は、その後どんな人生を……ってリプリー自身の内に巨大な喪失感と自責の念が巣くってしまってる。ここにリプリーも自覚しない無意識の動機、つまり、喪失感と自責の念を克服して人生を取り戻したいっていう欲求が生まれる。こうして、「リプリーは人生を取り戻せるのか?」というサブストーリーが生まれる。

そして、メインストーリーの鍵になる存在として最大最強エイリアンがラスボスとして設定されるように、サブストーリーにもサブストーリーの鍵になる存在を設定すると……ここに植民惑星LV-426の唯一の生存者であるみなしごニュートが誕生するという仕組みだ。

そしてリプリーはニュートと出会うと、無意識の欲求に従って、理屈抜きで問答無用で命がけでニュートを守る。なぜそうするのか説明なんかなくても、観客もまた無意識のうちに悟ってる。ニュートとともに生き延び、失われし母親の資格を再び手に入れ、証明するのだ……とここでラスボスの設定も固まってくる。ラスボスは単なる最大最強のエイリアンじゃない。敵も母親だ。すなわちラストバトルは宇宙最強母親頂上決戦だ。これに勝利することでリプリーは証明するのだ。要するにますますアツい


サブ欠点その2:弱い

精神的な弱さに加えて物理肉体も弱いなんて踏んだり蹴ったりで状況は絶望的すぎるかもしれないが問題なし。要は全部克服すればよいのだ。ここにリプリーの戦士としての成長というサブストーリーが生まれる成長要素は普通にアツい。別に強くなるのがかっこいいわけじゃない。サバイバルのためにそうするのがアツいんだぞ。ここ誤解しないように。

植民惑星LV-426に宇宙海兵隊とともにやってきたリプリーだが、当然だが兵士たちからみればリプリーはただのお客さんだ。リプリーもそれを自覚してる。だが宇宙海兵隊がエイリアンの巣に迷い込みエイリアンの群れからのアンブッシュを受けて全滅の危機に陥ったとき、リプリーは自らも戦うことを選択する。銃一つまともに撃てなくても出来ることはある。こうしてストーリー前半のクライマックス、リプリーが運転するAPC(装甲兵員輸送車)突撃シークエンスが始まる。間一髪のところで救われたわずかな生き残りの兵士たちとリプリーとの間にも絆が芽生え……という具合にリプリーと仲間たちとの団結というサブストーリーが進行するアツい。ついでにリプリーの引き立て役として無能ぶりを発揮したヘタレ中尉についても、ヘタレ中尉は汚名返上できるのかというサブストーリーが進行するこれもさりげなくアツかったりする。


サブ欠点その3:適度にあほ

主人公は強すぎないほうがいいのとおんなじで、主人公を無駄に頭良いやつとかにはしないほうがいい。主人公が頭良すぎるせいで敵の罠とかに全然陥らなかったりするとかえってつまんないでしょ? 人間なんて俺も含めて基本あほだから、欠点システムで戦うんなら、人間として自然な程度にあほだったり(あほ過ぎると逆に笑われる)無知だったり誤解してたりするのが原因で主人公がピンチに陥るんなら、観客や読者は主人公のあほさ加減にも共感して、応援してくれるはず。

『エイリアン2』でいえば、リプリーの合成人間に対する先入観あるいは誤解が原因でランスヘンリクセンとの対立があり、リプリーとランスヘンリクセンは分かり合えるのかという意外とアツいサブストーリーが生まれるし、リプリーたちがまんまとウェイランド湯谷に騙されるせいで、ウェイランド湯谷の陰謀っていうサスペンスのサブストーリーも生まれる。要するに、適度なあほさ加減や知識・情報の不足とかが、スリルやサスペンスを生み出す。アツいストーリーにスリルやサスペンスが絡んでストーリーを引き締めたら、これもう最強だろ。


抗え、そして抗え


ちょっと話変わるけどさ、少し前にジェームズ・キャメロンが叩かれたの知ってる? ワンダーウーマンとかキャプテンマーベルとかがヒットして盛り上がってる最中に、ジェームズ・キャメロンがうっかり「何をいまさらそんなんで盛り上がってんだ?」「キサマ等のいる場所は既に我々が2000年前に通過した場所だッッッ」みたいなこと言っちゃって炎上した。

まあジェームズ・キャメロンみたいな巨匠ですらたまには大人げないこともあるってだけの話だと俺は思うけど、それでもね、俺はあえてジェームズ・キャメロンの肩を持つ。この点に関しては俺はいくら文句言われても平気だ。リプリーやサラ・コナーをとっくの昔の昭和の時代にクリエイトして全世界を感動させた張本人のジェームズ・キャメロンには偉そうなこと言う資格がある。

ジェームズ・キャメロンを叩くやつらに、俺は問いただしたい。「おまえらはジェームズ・キャメロンがリプリーを美人にすることを拒否したみたいに、ワンダーウーマンやキャプテンマーベルを美人でもなんでもないキャラにできるか?」って。できねえだろ。そんな度胸ねえだろ。

俺に言わせるとね、あいつら口では多様性だのなんだの言ってるくせに、本音では「主人公が美人じゃないと客がこない」みたいなしょうもない怯え方してるだけですよ。それで相も変わらず、ブロックバスター大作を通じて「美形は善、ブサイクはノー」、「強いのは偉くてかっこいい」、「女子力」みたいな価値観を広め続けてるだけなんですよ。

それでね、そういうやつらがやってることって、「美形は善、ブサイクはノー」、「強いのは偉くてかっこいい」みたいな価値観に凝り固まった挙げ句、主人公を無自覚に太郎にしてしまうやつらと本質的には大差ないんですよ。おなじくらい幼稚。それなのに自分の幼稚さを自覚しないどころか自分のほうが考えが新しくて多様性だみたいなこと言って他人に偉そうに説教する。俺はそんなのまじ気に入らねえし全然好まない。「幼稚だからどうした俺は厨二だ!」って言い切るやつのほうがまだ誠実さじゃ上だ。

まあこんな時代だからね、俺はジェームズ・キャメロンが生み出したようなパルプがもっと必要だ。男か女か美人かブサイクかなんて関係ないド直球の人間力のドラマでジェームズ・キャメロンが世界中の観客を殴りつけたような、そういう『エイリアン2』みたいな真のパルプの中のパルプがだ。お願いだから、そういうの誰か書いてよ。ほんとにお願いだから。


それじゃ、またねー