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短編集3 夢のはなし

001

 こんな夢を見た。
 小さな子どものような黒い影が私の前に現れた。影は両手に小さな黄色いバケツを抱えていた。私は左手に木槌を持っていた。影は私に黄色いバケツを差し出した。ところどころ土で汚れており、劣化もしていた。私は「バケツを壊さなければいけない」と悟った。私は影からバケツを受け取り、地面に置いて、木槌を振り下ろした。影は嬉しそうに笑った。
 影はまた何かを持ってきた。それはガラスでできた金魚鉢だった。中に水が入っており、赤い金魚が一匹、晴れ着のような尾びれを揺らしながらゆらゆらと泳いでいる。影は金魚鉢を私に差し出した。私は同じようにそれを受け取り、木槌を振り下ろした。淵が欠け、水が溢れる。金魚は地面の上で震えていた。影は嬉しそうに笑った。
 影はまた何かを持ってきた。それは陶器でできた仏像だった。影がそれを私に差し出す。私は受け取りはしたものの、何もできずにいた。影がこちらをじっと見ていた。私は悟った。壊さなければいけない。私は目を固く閉じ、木槌を振り下ろした。胸が苦しかった。大きな罪を犯しておきながら誰からも咎められないような、そんな苦しみだった。影は私を見て嬉しそうに笑った。
 目の前には例の影がいた。しかし今度は何も持っていない。影は私をじっと見つめている。私は悟った。影を一度優しく抱きしめ、一歩離れ、木槌を握りなおした。私の腕から離れた影の表情は、もうわからなかった。私は再び固く目を閉じ、木槌を振り下ろした。影はもう笑わなかった。


002

 こんな夢を見た。
 夕暮れ時の校舎を私一人で歩き回っている。先程までたくさんの生徒がいたはずだったが、今ではもう影も形もない。私は一人の生徒を探していた。彼の姿を求めて校舎をさまよった。廊下。教室。体育館。理科室。中庭。美術室。しかし、どこにも彼はいなかった。私は一人だった。
 夕闇が濃くなり、視界がぼやける。ああ、夢から醒めてしまう。まだ彼に会えていないのに。彼と話せていないのに。輪郭が曖昧になった廊下の奥に一瞬、彼の姿を見た。
 それは何度も見た夢だった。私が生きるこの現実に、彼はもういない。


003

 こんな夢を見た。
 田んぼの畦道。自転車を押して歩いていた。隣には先月から付き合っている恋人がいた。一緒に下校するようになってもうしばらく経つ。他愛もない話をしながらすっかり薄暗くなった道を歩く。不意に彼女が、「ねぇ、見えてる?」と私に尋ねる。「見えてるよ」と私は答えた。隣を見ると彼女は笑っていた。しかしその笑顔は、見たこともない人間のものだった。私は彼女を知らない。何者かも分からないその恋人が急に恐ろしく感じた。逃げ出したい。しかし、逃げ出せない。蛙の声がこだまする。私は黙って自転車を押して歩いた。私と彼女の、ぴったりと合う歩幅が何よりも不気味に思えた。不意に彼女が「ねぇ、見えてる?」と私に尋ねた。私は黙って、彼女の隣を歩き続けた。


004

 こんな夢を見た。
 辺り一面の砂。起伏のあるその地形は、いつか写真で見た砂漠の風景とよく似ていた。空には満月が煌々と輝いており、砂に青白い光を投げかけている。月に背を向けしばらく進むと、月明かりを受けてきらきらと輝く砂の中に、何かが埋まっていることに気がついた。近づいて見てみると、それは人間の指だった。砂の中から生えてきたように、一本の指が顔を覗かせている。人差し指か、あるいは中指か。それは細く美しい指だった。私は屈んで優しくそれに触れた。指は驚いたようにぴくりと動いたが、やがて向こうからゆっくりと指を絡ませてきた。指の力は存外強く、離れようにも離れられなくなってしまった。
 ふと、私はこの指の持ち主が気になった。砂の下で息を潜めている人物に会ってみたいと思った。この絡めた指を引けば会えるだろうか。私は力を込めてその指を引き上げる。さらさらと砂が流れた。しかし、手首まで引き上げたところで、それ以上は動かなくなってしまった。それは陶器のような、冷たく白い手だった。その手は氷が溶けたかのように動いたかと思うと、いくつかの指を折り曲げ、私の背後を指さした。
 振り返ると先程よりも遥かに大きな月が私の前に迫っていた。明るく、痛いほどに眩しい月だった。私は逃げなければならないと感じて走り出したが、砂に足を取られてうまく進むことができない。月は私の背中を照らす。逃げられない。月はどこまでもついてきた。


005

 こんな夢を見た。 
 四畳半の部屋の中央にこたつが置かれており、私はそのこたつに入って男と向かい合っていた。そこは大学時代の下宿だった。向かい合っている男は同じサークルの友人であり、名を水瀬という。水瀬はこたつの上のみかんを手で転がしながら、「そろそろ離れるべきだろう」と呟いた。きっとサークルのことを言っているのだろう。私が「忘れてしまうだろうか」と尋ねると、彼は「それだけはない」と首を振った。このように、水瀬は私を否定することが多かった。しかし、彼と私が対立することはなかった。私がいつも折れていたためである。
 水瀬はおもむろにボードゲームの駒を手に取り、広げてあった地図の上、大陸の中央にそれを乗せた。世界地図のようであったが、私の知らない形の大陸や、知らないアルファベットの地名が書かれていた。地図をぼうっとを見ていると「もう覚えていないよな」と水瀬は言った。私は「思い出せないが、忘れてはいない」と答えた。嘘はついていない。水瀬は黙ってうなずいてから、「忘れないといいな」と、悲しそうに言っていた。みかんは黒く変色していた。


006

 こんな夢を見た。
 見知らぬ駅のホームで、私は列車を待っていた。他にも何人か人はいるが、みな私からは離れ、声をひそめて何か話している。時折笑い声も聞こえる。ああ、きっと私のことだろう。私のことを笑っているのだ。失礼な奴らだと思った。いっそ私の方から近付いて怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、しらを切られてはどうしようもないと思い、やめた。
 向かいのホームには、少女が一人立っていた。短く切りそろえられた艶やかな黒髪、紺の制服、赤いマフラー。可愛らしい少女だった。彼女を眺めながら私は「きっと線路に飛び込むのだろう」と思った。理由は分からない。もしかしたら、「飛び込まないで欲しい」という願望だったのかもしれない。
 ふと、急行列車が目の前を横切った。ただただ黒い、見たことのない車両だった。列車が通り過ぎると、向かいのホームから少女の姿が消えていた。「しまった」と思った。いつの間にか周りにいた人間も消えていた。私は線路に降りて、すぐ左のトンネルへと入った。トンネルを抜けると、中学校の校舎の廊下に出た。私は、はやる気持ちを抑えつけ、彼女が待つ教室へと向かった。廊下は走ってはいけない。ゆっくり行こう。廊下の突き当たり。教室の前まで来た時、私は急にその扉を開けるのが怖くなった。彼女が出てくるまで待とう。私は廊下の壁にもたれて彼女を待った。しかし、いくら待っても彼女が教室から出てくることはなかった。


007

 こんな夢を見た。
 贔屓にしている噺家が近くの寄席で公演をするというので見物に出かけた。しかし、寄席の中には誰もいなかった。舞台の上に並んだ赤と白の提灯だけが灯っている。誰もいないならと最前列の中央に座った。しかし何も起こらない。ただ高座には金色の招き猫が置かれていた。私は急に不安になり、「おうい、誰かいないか」と声をかけた。しかし返事はなかった。芝居がかった自らの言動が急に恥ずかしく思われたので、席を立ち、後ろの扉から外に出た。外はもう真っ暗だった。そこは細い路地になっており、煤けた室外機やビールケースが並んでいた。足元に注意しながらしばらく歩いていたら、どこかの舞台袖に出た。舞台上には紫色の座布団が一枚置いてあり、そこに照明が当たっている。ふと、暗い客席の方から「誰かいないか」と声がした。私は、「ここで出ていっては意味がない」と思い、しばらく待ってから舞台に上がった。客席には誰もおらず、ただ最前列中央の席に金の招き猫が座っていた。仕方がないので招き猫に向かって、うろ覚えの『死神』を延々と聞かせた。招き猫はただただ黙って聞いていた。


008

  こんな夢を見た。
 旅先で現地の少年から小さな笛をもらった。石を加工した笛で、側面には何かの文字が彫ってある。少年から笛をもらったのは、宿から出て街を散歩していた時のことである。その時、私は高台から見える風景をぼうっと眺めていた。眼下の人々の営みや、大気のレンズを通して青く見える山脈を、いつまでもいつまでも見ていた。そろそろ戻ろうかと振り返ると、男の子が一人こちらを見つめていた。白髪で赤い目をした、美しい少年だった。彼は現地の言葉で何か話している。不思議な声だった。小さな声だったが、高く、よく通り、よく響いた。私が旅人だとわかると、彼は私に小さな笛を手渡した。それから、たどたどしい日本語で「天使の笛」と言った。よくよく聞いてみると、夜に笛を吹けば天使の歌声が”鳴る”とのことだった。私は少年に礼を言って、その場をあとにした。高台から街におりるころには、あたりはすっかり暗くなっていた。目抜き通りには露店が並び、多くの人で賑わっていた。どうやら祭りらしい。あちこちで楽しげな音楽が流れ、人々はそれにあわせて歌っている。私は少年から受け取った笛を口に当て、息を吹き込んだ。音色は高く、よく通り、よく響く。私は驚いた。それは、あの少年の声だった。


009

 こんな夢を見た。
 師匠に呼び出され、駅前にある小さな喫茶店まで足を運んだ。彼曰く、「天使を捕まえた」。天使とは一体何なのだろう。なにかの比喩なのか、あるいは本当に天使なのか。どちらにせよ、あの師匠ならやりかねないと思った。じりじりと真夏の太陽が照りつける道をふらふらと進み、ようやくたどり着いた店内は、日曜の昼間であるというのに客がほとんどいなかった。見た限りでは窓際のテーブル席に女性が一人いるだけである。師匠はまだ来ていないらしい。人を呼び出しておいてどういうつもりなのだろうか。多少憤りを感じながら店員に促されるままカウンターにつこうとしたところ、テーブル席の女性が私に声をかけてきた。どうやら私に話があるらしい。口ぶりから察するに、師匠のことも知っているようだった。私は彼女の向かいに座った。彼女はおもむろに黒い布が掛かった鳥籠を一つ取り出し机上に置いた。
 「あの方は来ません。あなたの前にも、もう現れないでしょう」
 あの方とはおそらく師匠のことだろう。しかし、もう来ないとは、現れないとは一体どういうことだろう。
 「……師匠とは、どういったご関係で」
 「ほとんど面識はありません。一度会ったきりです」
 「今彼はどこにいるんです」
 私がそう尋ねると、彼女はくつくつと笑って、机上の鳥籠を指さした。
 鳥籠を覆う布の隙間から、何かが私の方を見ていた。


010

 こんな夢を見た。
 古い寺の大門をくぐり、表参道をしばらく進んでから、茶屋と仏具店の間の細い路地に入った。途端に周囲は日が暮れたように薄暗くなり、通りの人の声も届かない。路地をさらに進んで右に曲がると、石畳は砂利道に変わる。少し先に目を向けると、砂利の上に飛び石が敷かれており、奥に煤けた硝子戸が見える。硝子には掠れた金文字で「封明書房」と書かれていた。どうやら本屋のようだ。しかし、中は暗く、様子をうかがうことはできなかった。店の前で中に入るでもなくぼうっとしていると、ふいに背後から「いらっしゃいませ」と声をかけられた。びくりと肩をふるわせ、弾かれたように振り返るとそこには白い着物を着た女性が立っていた。黒檀のような黒髪に、透き通るように白い肌。ほのかに紅く、細い唇。どの部位に目を向けても曇りのない美しさだったのだが、最も私の目を引いたのは、彼女の瞳だった。白目はなく、吸い込まれるような漆黒が両の眼窩に嵌っている。黒々とした瞳の中には、星屑のような模様がまばらに散っており、時折きらきらと光を反射している。宇宙のようだなと、その時は思った。急に声をかけられ驚いた私は、悪戯を見つかった子どものような気分で、しかしながら彼女の容姿に見蕩れて、その場から動けずにいた。そんな私を見て、彼女は少し笑いながら「お客さまですよね」と落ち着いた、清流のような優しい声で尋ねる。私は頷いた。「どうぞこちらに」と、彼女は私の横を通り過ぎ、硝子戸を開けた。ふわりと百合の香りがした。
 彼女に促されるまま入った店内は、四方を本棚で囲まれた六畳ほどの空間だった。電灯は裸電球が一つだけ。足元も見えないほど暗かった。電球は天井からつり下げられているらしいが、その天井も濃い闇につつまれており、どれほどの高さなのかも分からない。部屋の中央には丸い木製のテーブルと椅子が置いてあり、彼女はそこに腰掛け、分厚い本を開いた。私が「あの、」と声をかけると、「どうぞ、お好きにご覧になってくださいまし」と顔を上げることなく答えた。欲しい本があるわけでもなかった私は、ひとまず入り口から見て右側の本棚に近づいた。目をこらして収められた本たちの背表紙を眺める。“列島霊異目録”、“建国史料集成”、“花鳥風月相聞集”など。聞いたことも、今後触れることもないであろう物々しい本ばかりだった。暗闇に浮かぶ文字をにらみ続けていたせいか、目の奥が痛みはじめた。私は固く目を閉じ、ふっと一息ついて、彼女の方を振り返った。彼女は動くことなく、開いた本を膝の上にのせて、それをじっと見つめていた。「暗い中でよく読めるな」と思ったが、あの瞳が特別なのだとすぐに気がついた。宇宙のようなあの瞳は、人より光をよく拾うのだろう。
 私の視線に気付いたらしい彼女は音を立てて本を閉じ、立ち上がり、どこかから椅子をもう一つ持ってきた。
「どうぞ、掛けてください。すこしお話しませんか」
 彼女はふわりと笑った。
 「お話ですか」
 「えぇ、あなたのことを教えてください」
 私は少しためらった。話せば何か大切なものを奪われそうな、そんな予感がした。
 「お話できるようなことはありません。私はただのつまらない人間です」
 彼女は首をかしげて、目を細め、くつくつと笑った。
 「ご自身のことをそのように仰ってはいけませんよ」
 「そうですかね」
 「えぇ、いけません」
 彼女の黒い瞳が真っすぐ見つめるものだから、私は思わず目を逸らしてしまった。どうもあの目はいけない。目を合わせるとすべて見透かされそうでいけない。しばしの沈黙のあと、彼女は口を開いた。
 「取り立ててお話しすることがないのでしたら、夢のお話などはいかがでしょう」
 「……夢ですか」
 「はい。眠りに落ちてから見る夢のお話です。いかがですか」
 「あぁ、それなら、」
 私は彼女にここ数日で見た夢の話をした。黒い影の夢。夕暮れの校舎の夢。畦道の夢。砂漠の夢。四畳半の夢。駅のホームの夢。寄席の夢。旅先の夢、喫茶店の夢。私が見た奇妙な夢の数々を彼女は楽しそうに聞いていた。九つ話し終えた私は、最後の、昨晩見た、中でも特に印象的だったあの夢の話を彼女に語ろうとした。しかし、言葉が出てこない。戸惑う私に彼女が不思議そうに首を傾げた。私は告げる。
 「……すみません。あともう一つあったはずなのですが……思い出せません」
 おかしい。昨晩の夢は他のどの夢よりも鮮烈で、忘れようにも忘れられないもののはずだった。しかしどういうわけか、その夢の内容だけ思い出すことができない。まるで、その記憶だけ抜き取られたような、そんな感覚だった。彼女はまた目を細め、くつくつと笑うと「いいんです。もう十分聞かせていただきました」と言って席を立ち、持っていた分厚い本を背後にある本棚に収めた。
 「……すみません。もう、帰ります」
 私がそういうと彼女は振り向き、「どうやって?」と尋ねた。私は店の入り口があった方に目を向ける。しかしそこには入り口など最初からなかったかのように他の壁と同じように本棚があるだけだった。ない。出口がない。本の城壁に囲まれた私は、目の前にいる彼女に問う。
 「あなたは何者なんですか」
 「わかりません。私にはなにも」
 天井から吊り下げられた電球が彼女の顔を照らす。黒檀のような黒髪。透き通るように白い肌。ほのかに紅く、細い唇。それからあの、星空を閉じ込めたような黒い瞳。あの瞳が、私を捕らえて離さない。
 「あなたはここにいるんです」
 「いけません。行かなければなりません」
 「ですから、どうやって?」
 わからない。彼女の瞳に見つめられていると、私はどうすることもできない。深淵の最奥を切り取ったような闇が、徐々に私の足元に迫る。
 「あなたは何も忘れてなんかいません。ずっとここにいるではありませんか。忘れたのではありません。終わらないだけです」
 彼女が耳元で囁いた。百合の香りが鼻腔をくすぐる。背筋を指でなぞられたような、嫌な寒気が走った。
 「あなたは忘れない。けれども、もう思い出せない。そうでしょう」
 彼女の声が頭の中で響く。脳を包み込むような優しく、美しい声で私を暗闇に引き込む。
 知らない。思い出せない。忘れない。終わらない。彼女の声が何度も聞こえる。それらは重なり合い、大きな波のようになって私を飲み込んだ。苦しい。息ができない。涙で潤んだ眼を薄く開けると、闇の中で電球の灯りがゆらゆらと揺れていた。私は必死に手を伸ばす。届かない。それでも私は手を伸ばした。すると、左手に何かが当たった。棒のような細い何かだった。私はそれをしっかりと握った。目を大きく見開いてその正体を確かめる。木槌だ。あらゆるものを打ち壊した、私の罪の象徴だ。私は悟った。今は何も知らない。もう思い出せない。しかし、あの夢だけは忘れない。終わらないこの夢を終わらせよう。
 私は固く目を閉じて、木槌を振り下ろした。
 

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