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硝子のloneliness

 小学生の頃、学校の年間行事の一つに『芸術行事』というものがあった。端的に換言すると文化祭に相当するもので、毎年『展覧会』『音楽会』『学芸会』の三つのイベントをローテーション――つまり三年に一度のペースで催されてきた。
 遠い昔の記憶ゆえに、どのイベントも随分と色褪せてしまったのだけど、その中でも未だに鮮明に憶えているのが、五年時の音楽会――要するにクラス対抗の合唱コンクールで歌った『二十億光年の孤独』という曲だった。曲名でピンときた方もいると思うが、谷川俊太郎さんの詩を合唱曲にしたものである。

人類は小さな球の上で 眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
火星人は小さな球の上で 何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
万有引力とは ひき合う孤独の力である
宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う
宇宙はどんどん膨んでゆく それ故みんなは不安である
二十億光年の孤独に 僕は思わずくしゃみをした

引用:『空の青さを見つめていると 谷川俊太郎詩集Ⅰ』(角川文庫)

 当時は「『ネリリしキルルしハララしているか』って何だよ」「何故に最後の歌詞はそれ?」と内なる一人ツッコミをかましつつ、先生から提示された曲を一生懸命歌っていた。
 そしてその独特な言葉選びが印象深かったからなのか、三十歳を超えた今もなお鮮明にこの曲を歌った記憶が残っている。この詩をここまで憶えている辺り、もしかしたら僕の人生において実は深い意味を持っているのではないか――幼き日々を回顧しながら、ふとそんな事を思ったのだ。

 だから、先日本屋で見かけた『空の青さを見つめていると 谷川俊太郎詩集Ⅰ(角川文庫)』を手に取った。
 収録されている『二十億光年の孤独』を改めて読み返して思ったのは、宇宙の壮大さとそれに比する自分という存在の矮小さを謳っただけの「なんだ、そんな当たり前の事か」という納得感と「自分なりに詩を解釈出来るようになったんだ」という安堵感……それと「五十年以上前の詩が、今でも鮮度良く活きている」という畏怖だった(だからこそ学校の教科書にも掲載されているんだと言われれば、それまでなのだけど)。

 僕たち人間はもちろん、虫や動物にだって、個々にそれぞれの【宇宙】を飼い慣らしている。
 小さくも孤独な【宇宙】は、時に互いに引き寄せ合う一方で、歪み合い衝突しさえもする。
 あるいは個々の【宇宙】が成長する中で歪みが生じ、その不安が故に助けを求め合う。
 けれども、いくら大きくなったたところで、どんな事象が生じようとも、僕を含めた全ての生物は、所詮地球という厖大な空間内にある小さな惑星の、更に一握の砂の微小な一粒に過ぎない。
 だから――ただそれだけ。宇宙が有する桁外れの孤独の前には、僕らの【宇宙】なんて限りなく無に近いものでしかないという事。
 悲しさも感じなければ寂しさも感じない、ほんのそれだけの話なのだ。

……と、ここまで書き綴っておいてなんだが、オチが特に思い浮かばない。
 とりあえず今日は最近の世相も相俟って、ただ『孤独』について徒然と書いてみたかった。
 ヤマが無くても、オチが無くたって、意味が無くたって、いいじゃない。
 書いた本人ですらどうでもいいと思っている文章でも、もしかしたら無関係の誰かにとっては意味をもたらすものになるかもしれないから――などと淡い期待を残して、この文章を締める事にする。


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