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久々につらつらと

 テレビの画面から流れてくる流行語大賞のニュースを見て、もう2021年も年の瀬に入ってしまったのかと驚くと同時に、今年の総括をしようにも特に目立った話題もない己自身の浅はかさにため息を吐かずにはいられない。
 思えばこの2021年も夏場まではほとんど去年と同じサイクルを繰り返していた気がする。そう、職場と自宅との往復ばかりだ。本音を言えば外に出たかった。本を読んで、知らない街をぶらりと歩いて、創作の刺激をもらいたかった。けれども、メディアが垂れ流す未知の外敵に関する有象無象の情報や、それらに踊らされた結果警戒を怠らない周囲の空気に、僕も屈さざるをえなかった。
 むろん、一人一人が自衛の意識を心掛けているのはいい事だと思う。その結果が、周辺諸国と比べて感染者数が激減した現在の状況に繋がっているのだろうから。
 それでも、もう少しこの周囲が醸し出している空気を振り払って、自分一人での旅くらいは出来た気もする。それでも、その勇気ある一歩を踏み出せなかったのは、単調な生活を繰り返すうちに同調圧力を振りほどく気力すら奪われてしまっていたからなのかもしれない。
 この2年弱、家に引きこもる時間が増えるにつれ、自然と自宅で親が観ているワイドショーやそれに類するニュース番組に触れる機会も大幅に増えた。そこで改めて感じたのは――もしかしたら僕だけなのかもしれないけど――ネガティブな情報の過剰摂取は、自ずと心を暗く重くさせるだけだなという事だ。
 確かに文句や愚痴を零す機会は必要だ。僕ら人間は言葉や感情を操に相手に伝える事が出来る。嬉しい事や楽しい事はもちろん、悲しい事や不平不満といった辛く怒りを覚える事も、まずは言語なり感情なり表に出して示さないと、相手に伝わるものも伝わらない。
 ましてやワイドショーやニュース番組なら、情報を伝えるという番組の性質上、尚更視聴者に強く訴えかける必要が出てくる。だから、政策の不満を訴えたり、不倫などのスキャンダルを厳しく追求するのも、仕事の一貫としては理解出来る。
 しかし、こうも同じ時間帯に、こぞって似たり寄ったりの話題からの批判やら文句といった場面に出くわし続けると、さすがに気も滅入ってしまう。これでもかと徹底的に追い詰めるように調べては、揚げ足を取るように批判の種を拾ってああだこうだ言う――その光景が、まるでテレビというメディアを使って一個人を袋叩きにしている様子を、画面越しに眺めているような気分になって、自然と気持ちが沈んでしまうのだ。あくまで個人の感想だけど。
 そりゃあ中には厳しく追求されても已む無しな話題もあったりもする。それでも、もう少しこう笑いだったり手心を加えるとか、ある程度の優しさや擁護とかがあっても良くないかと。
 ともあれ、そういった情報に触れるのが嫌で、ここ数ヶ月はテレビから逃げるように本を読み耽り、溜め込んでいた昔の美少女ゲームをプレイするようになった。
 そこで、ふと気がついた。この感覚、昔にもあったぞ、と。
 そう、あれは僕が大学受験を間近に控えた頃。色々な事情が重なり両親が衝突し続けた時。罵詈雑言から耳を塞ぎたくて、深夜アニメや恋愛シュミレーションに明け方まで耽っていた、思い出したくもないあの鈍色の時期にそっくりだなと。
 なるほど、こういった心が沈むような状況における僕の行動傾向は、十数年経った今でも大して変わっていないらしい。
 果たしてこれがいいのか悪いのか、僕にはわからない。ただ、こうして逃げ回り続けてばかりでは駄目だという事も、かといって真っ向から立ち向かい全部受け止めようとする事も駄目だという事も、今ならハッキリ理解している。
 何事も三歩進んで二歩下がる。ほどほどに攻めて、時には引くことも厭わない。その逆もまた然り。冒険しない安定を求めた立ち回りだなと、十年前の僕が見たら苦笑いを浮かべるかもしれない。
 それでも、0か1か、白か黒かの二元論で行動を片付けようとしなくなっただけ、僕も大人になっていると思いたい。
 え? それは大人じゃなくて、単なる老いの始まりだって? それは言わないお約束だ。

久々にnoteに書く記事が、こんな乱雑な文で良いのかはわからない。
 ただ、年の瀬に際して、今思った事や感じている事を、衝動的に書き綴ってみたかった。
 どうせ後でまとめて書こうとしたところで、自分の性格からしてどのネタに絞ろうかと迷っている内に年を越してしまいそうなので。


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