hello good bye
それはまるで、一粒の角砂糖のような建物だった。
四方を囲む真っ白な外壁は、外気による風化も一切見られず、この期に及んで尚も汚れなき純白を保ち続けていた。
綺麗さを通り越してある種の狂気すら帯びた、この四角い繭。
「ねえ管理人さん、今空いてるんでしょ? じゃあ、使ってもいいよね?」
平たくも静かな熱を保ち続けた口調で告げたあの子が、手持ちの道具を携えてアレに籠もり始めて、一体幾日経ったのだろう。
経過日数自体に興味はない。今の僕にとっては、ただの無機質な数字でしかない。
しかし管理人の立場上、住人の体調管理を怠るわけにもいかない。だから今日も今日とて、僕は無垢な白色のドアをノックし続ける。
返事が返ってこないことはわかっている。それだけあの子は部屋の中で没頭しているのだ。
入室する携えていた道具一式を思い出しながら、あの子の様子を想像する。静かに募らせ続けてきた熱を拡散させ、一心不乱に行為に耽るあの子の姿を。
ネガティブを打ち消すのは、熱意と没頭だ。どこからか耳に入ってきた言葉を思い出す。
その通りなんだと覆う。あの子も今まさに、己が纏うネガティブを打破しようとしているのだろう。
僕とは大違いだ。熱意と没頭をもってしてもネガティブを掻き消せず、終わってしまった僕なんかとは。
「代わり映えなき、白い静寂――」
ガタン! なんとなしの呟きは、不意に部屋から響いた物音によって、あっさり否定されてしまった。
外にまで漏れ聞こえるほどの、軽やかに跳ねた音。
ひょっとして、まさか――ノックをするのも忘れて、僕は建物のドアノブに手をかけて、回して、そして引く。
知ってはいたものの、部屋の中もまた一面の純白だった。
四方の壁も天井も、白。内装も天窓もない、気の狂うような白。
けれども、今は違う。ただ一点だけ、変わった場所が出来上がっていた。
「ドアもノックせず入るなんて……管理人さん、サイテー」
懸念していたあの子は、部屋の中心に佇んだまま、きょとんとした顔でもって僕を迎え入れてくれた。
身に纏っていた白色の衣装を、色とりどりの絵具によって塗れさせながら。
「終わったのか?」
「だってやり残したままじゃ、終われないし」
僕の問いかけに、眼前の子は淡々と返事を紡ぐだけ。
入室前とほとんど変わらない口調。でも、浮かべる表情の緩みまでは隠しきれないらしい。
視線を床に落とす。天井とも壁とも同じ純白も、今やそこだけ濃淡鮮やかに彩られていた。
その中心にあったのは、一冊のスケッチブック。共倒れしたであろうイーゼルの事など気にもとめず横たわる紙の集合体の剥き出し部分は、既に隅から隅まで数色の絵具によって滅茶苦茶に塗り潰されていた。
もしかしたら何かを意図しているのかもしれない。しかしあいにく絵画における審美眼など持ち合わせていない僕には、眼前のこの子の描いた作品など、ただ無数の色の絵具で適当に塗りたくっただけのようにしか見えなかった。
「あとはこれを、こうして……っと」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、絵具まみれの部屋の住人はスケッチブックを手に取ると、紙をリング部分から一枚一枚、丁寧に取り外していく。
その度に、最初に目にした剥き出し部分とはまた違う色の絵具で塗りつぶされた紙が、一枚また一枚と床に舞い落ちていく。赤があれば青もあり、白もあれば黒もある。紫に茶色にオレンジに黄色にピンクに――
「一体何色分の絵具を使ったんだい?」
「知らない。とにかくある分だけ使い尽くして……足りない分は、色を混ぜ合わせて……」
スケッチブックから、最後の一枚が剥がされる。床に舞い落ちた、数十枚の画材用紙だったもの。
今ではその一枚一枚に、無数の色を綯い交ぜにした混沌が生まれていた。
「これって何を描いてるんだ?」
「かつていた所……」
即答しながら、その子は床に散らばった紙を適当に並べていく。つなぎ合わせたりはせず、ただ近くにある紙同士を縦に横に並べるだけ。
これを果たして作品と形容するべきなのだろうか。しかしこの子が満足しているのなら、それでいいのだろう。
どうせこの世界に、評価してくれる機関など存在しない。大事なのは自分自身の心のありようなのだから。
「……満足したのか?」
問いかけに対して返ってきたのは、輝きを帯びた眼差しだった。
まだ幼さを残した円い瞳に、淀みは一切見られない。
もうここまで透き通ってしまった以上、次に口を開けて発するセリフなんて容易に想像できた。
「それじゃあ、行ってくるね」
「かつていた所に、か?」
「もう、ここでやれる事やりきったから――」
そこで言葉を止めて、カラフルに彩られた住人はゆっくりと歩き出す。
向かう先は、入り口のドアとは反対側に備え付けられた、もう一つの出口用のドア。
「――終わらせちゃったからには、また始めないと」
「正直オススメしないな。どうせ戻ったところで、しんどい事だらけだ」
「わかってるよ。事実、一度自分の手で終わらせちゃったから、ここに居るわけで」
なら、どうして。咄嗟に疑問を口にする隙も与えず、背を向けたままの住人が話を続ける。
「それでもね、この穏やかで平和過ぎる世界に居続ける中で、気付いたんだ……本当の終わりなんて、永遠に来ないんだって」
「本当の終わり?」
「満足しても、後悔しても……やりきってもやり残しても……何かが終われば、それと引き換えにまた次の何かが始まっちゃう。結局『あっち』でも『こっち』でも、やる事は変わらないんだって」
「そうかな? 僕にはそんな感情、さらさら湧かないけど」
「それはきっと、自分とお喋りしてないだけじゃないの?」
「………………」
辛辣な一撃に思わず言葉に窮する間に、出口用のドアが開く。
先に広がっていたのは、ただ一面の濃厚な青のパノラマのみ。
希望も絶望を綯い交ぜにしたようなその空は、次なる一歩を踏み出すには相応しい眺望だった。
「今までお世話になりました……それじゃ、行ってきます」
僕の方へと振り返って見せた表情は、微笑みを湛えていて。
緩めた顔の可愛さに気付いたと同時に、あの子はドアの外から一歩を踏み出して――瞬く間に見失ってしまった。
あのドアから先に、地面は存在しない。
背中に羽も生えていない以上、あとはひたすら落ちるだけだ。
「逝っちゃったか……輪廻転生の地へと」
これまで、何度繰り返し見てきた光景だろう。
両手の指だけでは足りなくなったところで、もう数えるのは辞めた。
再び『あちら側』へと旅立つ者を見届ける出発所(ターミナル)の管理人兼見送り人――それが僕の『ここ』での仕事だから。
そう言い聞かせているうちに、いつしか色んなものが麻痺してしまった気がする。
「自分とお喋りしてない、か……」
明らかに年下と思しき子からの箴言に、自嘲の嗤いが止まらない。
床をじっと見つめてみる。真っ白だった部屋に遺された、数十枚にも及ぶ彼女のダイイングメッセージ。
たった十二本の絵の具チューブが紡ぎだず無数の彩りが何を意味するのか、僕にはもうわからない。
だけど何故だろうか、しばし見つめているうちに不思議と懐かしさがこみ上がってくるのだった。
かつて、この無数の色の海に溺れていたような日々があったような、そんな気がして――
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