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語る、聞く。

語る人がいて、聞く人がいて。

声を聞かれている実感は、他者とつながる感覚でもあることを、先月の取材であらためて感じた。

なんのために、語るのか、言葉にするのか、残すのか。それは言葉にならない言葉を、言葉になる前の言葉を、語ることで耳を傾け、感じ、自分や他者と分かち合うためなのかもしれない。

そこではじめて、声を聞かれる実感と、他者とつながる感覚を得るのではないか。端的に文面上の言葉にするためとは、まったく違うことである。

人が語ろうとするのは、伝えたい何かがあるからであるよりも、言葉では伝えきれないことが、胸にあるのを感じているからだろう。言葉にならないことで全身が満たされたとき人は、言葉との関係をもっとも深めるのではないだろうか。

悲しみの秘義 | 若松,英輔,1968-

またそれは、共にいてくれる内なる他者を、母のような存在を、内側に宿すことでもある。そこでようやく人は孤立から解放されるのではないだろうか。

話を聞いてもらったり、対話をしたり、文章を読んでもらったり。今までそのように声を聞いてもらうことで、他者とつながるような感覚を得てきた。聞かれずにいる声があったときは、とても空虚で孤立をしているように感じる。声を聞かれずに人とつながる実感を得るのは、ほとんどないのだろう。

言葉にならなくても感じたことはそこにあったのだから。どのような声もできるだけ無下にしたくはない。”できるだけ”、とつけるのは聞くことは胆力のいることだから、わたしもまだまだ学びの途中である。

語ること、聞くことは、
詩を書くこと、読むことに近い。

"書けないものに出会うことによって、言葉たりえないものがそこに表現されているのです。何とも言えないが、たしかに何かがあるのを感じるのです。絶句することによってのみ、表現されることがあります。それを言葉で表現するのが詩です。"

"誰もが語り得ないおもいを胸に秘めて生きているのではないでしょうか。詩は、そうしたおもいによって他の人とこの世界と、あるいは歴史と、あらゆる存在とつながろうとする試みでもあります。"

詩を書くってどんなこと?こころの声を言葉にする 若松英輔

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