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田中泯 名付けようのない踊り を鑑賞した

いのちの記憶に触れたような、そんな安堵につつまれる。
集中必至のオープニング。
潮騒の波音を背景に、海浜の砂の映像パンから始まる。
いのちの発源地、大海。

夕日にきらめく波頭シーンから一転、

近代器機と無縁の黄白土色に塗られた密集した土壁風の家々へ。
ポルトガルのサンタクルス。

欧風の田舎町で見られる住居群の間に貫かれるように、
奥へ奥へとまがりくねり、遠近で細くなっていく石畳上
で蠢いているダンサーがひとり。
繊細な動きをともないながら触れるか触れないかの距離をたもちつつ、
石壁を這うように、縫うように、一匹の蜘蛛のように
すべてと同化していく。

詩的な映像美の連続性のなかでひときわ興味をおぼえたのは、
”わたしのこども”(こどものころの内的世界を自身が呼んでいた)
シーン。
あるスタイリッシュな映像から生温かで肉筆感漂うアニメーションにより、ここぞというタイミングで寓意の世界を垣間見れたことの悦び。
一瞬温かな皮膜に包まれる。
”大丈夫”優しいつぶやきが自身の脳裏をよぎったのは、なんだったのか?

ある映像の狭間にさしはさまれる異質な映像の連続。
コラージュのごとく、徐々にひとつの世界を紡いでいく。

終章な”最後の踊り”は
踊ることの自身の喜びを伝えるものとうけとった、福島の被災された廃墟と化した住居に居る”蜘蛛”との饗宴シーン。

蜘蛛と一体となる、在ることの喜び、踊る悦び、
そして、生きていることの歓び。
夕日の光の粒々が一面にまき散らされたような
大海を背景にひとつの人影が夕空に広げた両手を
ゆっくりと日没の闇とともに頭上で重なり、

そして、自身をつつんでいく。

再びいのちの記憶がよびさまされる。

いのちはいつかは消え、そして再び生かされていく。

いのちのリーンカーネーション。

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