Lifetime Recipe~ & landscape:Page.00-2
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翌日出社して、上司に現状報告した。しかし、倒れた時に発見してくれたはずの上司がいない。さらにその上に掛け合うことになった。半年勤務に関しては、さらに上とも相談してどうするかということになった。
日常的に会話はあるけど、特に仲がいいというわけではない女性の同期が、その日の昼に耳打ちしてくれた。
「第一発見者の課長、櫻月さんが倒れた時、ビビって通報しないで逃げたのバレて、しばらく自宅謹慎だって」
逃げた?救急車も呼んでくれなかったのか。なら誰があたしを、と聞くと、あの日課長とすれ違いで帰ってきた同じ課の同僚の男の子であることがわかった。感謝。
結果として1週間ほどで、あたしの半年勤務は了承された。課長が不在のため部長からの通達となったが、案外いい人なのかもしれない。その時にこっそりと教えられた情報が1つあった。これから別のことを始めようというあたしにとってはとても好都合なものだった。3ヶ月後には結果が出るということで、しばらく待ってみようと思う。
ただ、それからは最初のうちこそまだ普通に仕事をしていたが、2ヶ月3ヶ月と時間が過ぎるごとにあたしが病気であることはグングン広まり、感染するという噂まで広まりつつあった。ちなみに課長は自主退職したらしい。居た堪れなくなったのだろうか。別の人がその席に座るようになった。
周囲からはどんどん人が減り、プロジェクト単位で進行している案件からは不意に外されることも増えた。あたしの不眠不休を返せ。おかげで最近は定時だけど、それによる痛い視線も勘弁して本当。これなら、多少残って仕事してる方がマシ。そんな裏側で、あたしの計画を進行させる時間は潤沢に取れていたから、スピード感が上がる。
恋人とは特に波風もなく続いていたつもりだったけど、会う回数は激減していた。なんならもう二ヶ月ぐらい会っていない。ある日3ヶ月を過ぎたある日。
会いたい旨を告げると、一瞬、という制限が来た。相変わらず忙しいのだろうか。
しかし、それは違った。
会社の下で会うと言うことになって、彼は車を止めて降りてきた。
「そ、それ以上近づくな!病原体」
……え?まだ2mくらいあるんだけど。
「もう会わない。お前なんかと付き合ってたと思うとゾッとする。最悪だ。とりあえずいろんな検査して大丈夫なことはわかったけど、改めてうつされたらたまったもんじゃない」
う、うつる?
「え……で、でも大丈夫だよ?何しても移ったりしないから」
「うるさい!余命抱えた人間なんてごめんなんだよ」
「え……でも、キスしてもセックスしても別にうつるようなものじゃないよ?」
「気持ち悪いこと言わないでくれよ!誰がウイルスなんかとそんなことするかよ!」
「……ウイルス」
「この距離でも近づいてやったんだからありがたく思えよ。お前と同じフロアの奴らはほんと不幸だよな。余命振り撒かれて。信じらんねぇ。じゃあな」
と、そのまま目を合わせることもなく踵を返して去って行き、路肩に止めた車に乗り込む。見たことのある顔の女の人が助手席にいた。
……そう、か。
バイ菌扱いか。
そう、なんだ。フロアの近い距離で一緒に仕事してくれている人は、わかってくれているのに。
なんであんなのが恋人だったんだろう。結局騙されていただけか。あたしだけでないこともわかっていたから、いつかは別れるんだろうなとは思ってはいたけど、それにしたって、この別れ方はあんまりじゃない、神様?その夜は、その言葉と自分の情けなさによって涙の海溺れた。あの人がくれたことのあった温度も言葉も時間も傷も、全部流れていく。ざまあみろ。土砂降りの涙に乗って泥に塗れて流れていけ。別れたことは、別に寂しくも悲しくもなかった。
それからは、社内で孤立化を深めつつも、退職予定の一ヶ月ほど前に、経営状況の低迷による依願退職が募られたが、イケメン部長のおかげであたしは会社都合退職者として計上された。退職金は通常の依願退職とは倍になる。これで資金集めもペースが上がった。しかも辛い激務からも解放される。
それから程なくしてひと月が経ちあたしは無事会社を退職。送り出しも特になく、送別会なんて話も出なかっただろう。
そうして東京のアパートを引き払い、埼玉の実家に引っ越した。でもここにいるのもおそらく一年とないだろう。
さぁ、本格化しよう。
まずはほぼすべての通信教育課程を終えつつあった資格取得から始める。食品に関することや、ペーパードライバーだったため実家の車で練習を始めたりした。
そのほか、食べ物を販売する上で必要な資格を取得して、同時に家では母にも付き合ってもらいながら料理修行も始めた。週に2回料理教室にも通った。
忙しくしていればしているほど、なんでこんなことそしているのかという発想の素で病気のことを忘れることはなかったけれど、それでも、極端に落ち込むことはなかった。時々心が悲鳴を上げそうになる夜はあったけれど、集中力と稼働量とそれに伴う疲労があっさりとベルトコンベアみたいに睡眠を連れてきてくれたから、まだ正気でいられた。
計画を両親に話した時は、ひとりになって大丈夫なのか、という点において、病院からの診断で、一ヶ月に一回必ず検査に帰京することを条件に許可をもらったことを根拠に押し通した。あと、在宅用の酸素ボンベを借り受けることができたことも助けになった。なにかあれば、当面はこれが頼りになる。2本目の命綱。1本目は、あたしの計画。その夜はさすがに多少喧嘩にはなったけど、話す時間もたくさんあったから、渋々納得してもらった。
一般的なこととして、あと60年生きられる年齢だ。それができるのならこんなことはしない。けど、あたしはあと10年生きられるかどうか危ういのだ。両親より先に逝くことは、もう間違いがなかった。けど、そんな、先立つ不幸がほとんど確定しているからこそ、せっかく両親からもらった命を腐らせて終わりたくない、と泣き落としもかけた。それなら、60年分を10年で生きてみたい。全部本音。あたしも母も、父もぐしゃぐしゃに泣きながら話した夜もあった。
10年後に死ぬことが確定しているわけじゃない。あくまで目安である。でもそれ以降は生存確率は下がるばかりというのはほぼ確実だ。もちろん絶対はない。もっと早く死期が来る可能性だって、遅くなる可能性だってある。症状を緩和する方法はあっても、発作のように病状が悪化した時に対処する方法はあっても、完全治癒に至る方法はない以上、対処療法しかないのだ。検診の度にそう言った医学的に難しいことの説明を受けていて、徐々に自分置かれた位置が輪郭を獲得していったこともある。
長く生きることを諦めたわけじゃない。
じわりじわりと死の足音が近づいてくる不治の病という圧倒的不利な状況だとしても、少しでも自分が長く生きることを望むのに、それを掴み取りに行かないというのは話が違う。ちゃんと望んでるって言えるために、あたしは自分が望む計画を進めた。
料理の修行も多岐にわたった。和洋中は当たり前、創作料理やエスニック、民族料理にまで至った。作るかと思えば材料が特殊だから家で作ることはほとんどないだろうものまで習得する。レシピいくつくらいまで数増えたんだろうか。と思うくらいの勢いだった。友人も手伝ってくれたし。
そして最終段階。いよいよ持って車を取得した。2台。
キャンピングカーと、自走牽引機能付きのキッチンカーだ。
そう。
あたしの計画は。
その出発の日から、それができない体になるまで、キッチンカーで料理を提供しつつ、全国中を奔走しようと思ったのだ。