見出し画像

蕎麦変人おかもとさん #15

第十五話 消えた岡本さん

第十四話 新たなるホーム島之内

『かしわぎ』が移転して以来、僕は二、三か月に一度のペースで顔を出していた。一方の岡本さんはまたまた多忙を極めだしたようで、少しずつ会う頻度が減り、会えたとしても前のように終電までではなく、わずか1時間などと短くなっていた。

『かしわぎ』の移転から一年近くが経った二〇〇一年一月。僕は悩みに悩んで松阪のインド料理店『ターリー(THALI)』をついに閉店することにした。

 これからのことはまだ何も決まっていなかったが、とりあえず大阪へ。新天地は新大阪駅近くの単身者マンションだ。特に意味はない。母親は兵庫県の宝塚よりさらに山の方に越していたので、どこか駅に近い場所はないかと探していてたまたま見つけたのだ。

 地下鉄の新大阪駅まで走って三分、新幹線新大阪駅までは五分というなんだかすごく仕事に向いた立地。さて、次は何をしようかと、ポストに入っていた電話帳をペラペラとめくっていたら電話が鳴った。かつて世話になったことのあるベテラン編集者からだ。東京のクライアントの広告の仕事をしないか、というお誘いだった。なんでもやるつもりでいたので、内容を聞くまでもなく二つ返事。

 クライアントは有機野菜を定期的に宅配する会社だった。販促・広告オフィスが渋谷・富ヶ谷にあり、さっそく僕はほぼ毎週三日間ここに通うことになる。

 その三か月後に今度は田町のウェブデザイン企業を紹介され、こちらでも各企業の広告制作を定期的に受注することになる。さらに新宿と築地の出版社からも仕事が入り、週に一日大阪に戻るのでやっとの忙しさとなった。

 無数の星と眩しい月明かりを見上げる毎日だった『ターリー』の暮らしからは激変した。

 そして、松阪を後にしてから二年の月日が経った。

 岡本さんとはとうとう連絡がつかなくなり、いつの間にか完全に途絶えてしまった。どれだけ電話やメールをしようともまったくつながらない。勤めるスイミングクラブは関西各地にあり、どこに配属されているのかもわからない。

『かしわぎ』にも来なくなってしまったようで、しばしば岡本さんの話題になっていた。

 ある夜、柏木さんが暖簾をしまい、僕と二人で飲み会になった。座敷側の照明は落とされ、カウンターの隅だけが裸電球でぼんやりと映し出されている。柏木さんはパイプ椅子に腰掛け、タバコをふかしつつ、焼酎の入った計量カップをちびちびとやる。

「どう、岡もっちゃんから連絡はあったかい」

「いや、それがどうにもこうにも。携帯電話に連絡を入れてもいっつも留守電だし、たまにメールを打ってもまったく反応がなくて」

 微笑みながら柏木さんはマイルドセブンを吹かす。

「ふふ、今頃何やってんだろうね。岡もっちゃん、真面目だから仕事かなやっぱり」

「さて、どうなんでしょう。実はこの間、ご両親が大阪まで出てこられてお会いしたんです。浩が今何をしているか知りませんか、なんてすごく心配されていて。僕にわかることは、僕が松阪から大阪へ帰ってきてまもなくした頃、なにやら勤めていた会社の経営状態が芳しくなく、この先いつどうなるかよくわからない、なんて言ってたことくらいで。それ以上は何も知らないんです」

 柏木さんはゆっくりと口を開いた。

「いやぁ、岡もっちゃんって真面目だからねぇ。もう少しいい加減なほうが楽なのになぁ。俺なんて殆どのことはどうにでもなると思って生きてきたけど」

「そうですね。岡本さんは歩く電子辞書、コンピュータと言われてきたほど、めちゃめちゃ繊細でIQが高い人。超高性能変人だけに何かの拍子でバランスが崩れると、それもまた人並みじゃないのかもしれません」

「岡もっちゃんて頑張り屋なんだよねぇ。ほんと早く結婚すりゃいいのにと思っちゃうよ。岡もっちゃんていくつだっけ」

「僕が今年三八歳になりますから岡本さんは三九か四〇だと思います」

「まぁ近頃は顔色もいまひとつだったし、よく食べるんだけど痩せ細っちゃてるし、心配しちゃうよね。仕事が忙しくてそれどころじゃないのかな」

「自分のことを後回しにしてでも部下の面倒を見るような人ですから。そして人一倍我慢強い。会社でたぶん自分が一番ボロボロになってるのかもしれません」

「う~ん、やっぱし結婚したほうがいいやね」

 数秒間、静まり返り、柏木さんが冷蔵庫から焼酎の瓶を取り出して、僕のグラスに注いだ後、自分の軽量カップにも注いだ。

「まぁ大丈夫だろうけどね。きっと岡もっちゃんは楽しくやってるはずだよ」

「そういえばいつぞやのメールには、最近はマンガ喫茶に寝泊りしているって書いてました。住んでた部屋を出てしまったのかなと思ってメールで聞いたんですけど、その後また返事がなくて。マンガ喫茶で生活するなんて、いくらなんでも疲れるんじゃないかと思います」

「なんなの、そのマンガの喫茶って」

「ええ、最近急増してるんですけど、マンガが山ほど置いてあって、電話ボックスみたいな狭い部屋で一晩中読んでいられるところです。泊まることも可能だしインターネットもやり放題」

「へぇ今はそんなのがあんだぁ。インターネットちゅうもんも一度やってみたいもんだよ。マンガ喫茶か、なんだか面白そうだね」

「ええ、これがけっこう使えるんです。街のあちこちにありますよ。店によっては、ビリヤードやダーツなんかも置いてあるし」

「ふぅ〜ん、ビリヤードなんて今の子もやんだね」

「もちろんですよ。ちょっとしたブームな感じです」

「むふぅ、まるでカプセルホテルだねぇ。今度行ってみなきゃねぇ」

「岡本さんって、昔は毎晩夜中の一時二時まで一人で働いているかと思えば、突然ゲームセンターに通いだしてカーレースのゲームに夢中になったり。しかも、そのゲームで関西ナンバーワンの記録保持者にまでなったんですよ。心斎橋商店街のゲーセンで長い間記録が破られなかったみたいで。で、横断歩道の白いところを踏みながら、蕎麦蕎麦なんてつぶやいているし。ちょっと危ないでしょ」

 柏木さんの顔が牡丹餅のように緩々になった。

「そういやぁ以前も年末に一晩で七枚か八枚かの蕎麦を食ったって言ってたよなぁ。奈良や京都まで行ってね。確か三軒か四軒かハシゴしたって」

「岡本さんは関西はおろか信州や北関東あたりでもすっかり有名人です。「蕎麦仙人」「蕎麦変人」などと呼ぶ店もあるほどで。みなさん、岡本さんだとわかると喜ばれるんですよ。で、すぐに仲良くなって、その店のまかないまで食べたりしてるようで」

「あれほどの蕎麦好きも滅多といないやぁね。最初に岡もっちゃんを見たときゃ驚いたもん。だって酒もアテもなしで、二八、白雪、田舎と三枚すべて立て続けに食っちゃったんだからねぇ。

おまけにご飯も何杯もお代わりしちゃうし。最初の頃は大阪人はみんなこんなふうにして蕎麦食ってんのかなって思ったりしたけど、どうやら岡もっちゃんだけだね。すぐに売り切れにしちゃう人って、そう思ってたよ」

 普段は無口な柏木さんだが、ひとたび調子に乗るとフワフワとした表情で語り続けるのであった。

「むふふぅ。でも岡もっちゃんの気持ちもわかんなくもないよね。俺の長男なんかも一人でどこかわけのわかんない国とか勝手に旅してたりすんだよね。で、気がつけば今、アメリカで魚屋やってんだよ。本当、ありゃ変なヤツだぁあ。まぁ俺に似たんだろうけど」

「アメリカで魚屋ってすごすぎます」

 柏木さんは片手でタバコをふかしたかと思えば、もう片手で自分の膝の上をパシンと叩いてこう言った。

「まぁね、やっぱし岡もっちゃんは大丈夫だぁ。きっと、どっかの蕎麦屋を歩き回っているはずだよ」

「岡本さんは歴史も好きですから、奈良とか、大学時代によく通ったという箱根や鎌倉なんかに行ってるかも」

「あぁそっちのほうにも蕎麦屋あるもんね」

「またボロボロの紙袋でもぶら下げて、その中に山ほど蕎麦屋のチラシとか入ってるんじゃないですかね」

「むふふふぅ。で、またあちこちの蕎麦屋で顔馴染みになってるかも。面白いね、やっぱり」

 夜はすっかり更けていた。何の答えを出すわけでもなく、僕と柏木さんはいい加減で楽しい酒を飲み、そして眠たくなった。そろそろ帰ろう。

 店の戸をカラカラと引き、軽く会釈する。すると柏木さんが外まで見送りに来てゆっくりと手を上げる。

「岡もっちゃんから連絡あったら教えてくんない」

「あ、はい、わかりました。おやすみなさい」

「あぁ、おやすみ」

 店を後にして、僕は一人で島之内の通りを西へ歩いていく。スーパー玉出の黄色いネオンを眺めながら、自動販売機で冷たいお茶を買い、一口喉に流し込む。

 そして堺筋の方へゆっくりと進み、ハングル語の食堂や美容室、島之内図書館を横目に、タクシーの縦列駐車が激しい堺筋に出る。歩道には香水プンプンの水商売ネーちゃんたちが行き交っている。すべてがいつも通りだ。

 僕は届くか届かないのかわからない携帯メールを岡本さん宛に打つ。

「柏木さんに連絡してください。ごっつ心配してはります」

「 第十六話 最終回 愛と個。激動の二〇〇四年」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?