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蕎麦変人おかもとさん #14

第十四話 新たなるホーム島之内

第十三話 岡本さんの蕎麦屋便り

 二〇〇〇年二月、岡本さんから電話がかかってきた。

「河村さん、柏木さんが先月ようやく移転されましたよ。今、新しい店行ってきました」

 一年ほど前から、東心斎橋の家賃が高すぎることを理由に移転を考えていた柏木さん。当初は僕が住んでいた大阪北部の郊外、豊中市や高槻市で探しておられて、僕も知人の不動産業者を紹介していたのだが、結局は同じミナミ内で転居を決めたようだ。

「で、ミナミの島之内ってどこなんですか。聞いたこともない」

「ええ、ミナミでも堺筋の東っかわ。ただね、けっこうアクセスがややこしいんです。駅でいえば日本橋か長堀橋かな。でも、僕は心斎橋駅から歩いてみました。周防町通りを東へ進んで、堺筋を越してさらに東へ。そのあたりからハングル語の料理店や雑貨屋が出てきて、二、三分も歩くとスーパーが出てきますので、その次の角を左」

「歩くコンピュータ」の説明を聞いてもぴんとこない。僕は手紙やガス代の請求書などが雑に入った段ボール箱の中から、柏木さんが以前に送ってくれたハガキを探しだす。

「ええっと、いまカードに書かれた地図を見てるんですけど、ふむ、こりゃ阪神高速の近くですか」

「あ、そう、一号環状線です。ま、店は前とそんなに変わらない広さなんですけどね」

「やっぱり柏木さんはミナミを選びはったんですね。家賃の安い物件を見つけられたのかな」

「いやね、豊中の北部も家賃が高いようで厳しいらしいんですよ。だったら少しでも繁華街に近いところでってことで、それほど家賃も高くなかった今の場所にされたみたいですよ」

「引っ越しを手伝うって言うてたのに。どうやって移動しはったんすかね」

「うん、荷物も多かったようで、基本的には業者に頼んだみたいです。あとはミナミの知人が手伝ってくれたとか言ってましたね」

 新たなる『かしわぎ』は、地下鉄堺筋線と千日前線、近鉄線が乗り込む日本橋駅、地下鉄の長堀鶴見緑地線、長堀駅など、すべての駅まで歩いて七、八分の距離。便利と言えばそうなのだが、大阪は時代と共に多くの企業が梅田や淀屋橋などキタに集中していくため、日本橋や長堀橋で乗り換える人は多くても、下車する人はそれほど多い印象はない。

 大阪有数の繁華街、御堂筋線の心斎橋駅があると言っても、ここを降りる人々が東側の堺筋を超えるというのはちょっと考えられない。一応同じミナミ圏内ではあるが、繁華街の対岸であることが賃料の安さの理由であろう。

 数日経ってから、僕は近鉄特急に乗って大阪へ向かった。心斎橋の大丸前で岡本さんと待ち合わせ、新たな『かしわぎ』までの道のりを確かめるように歩く。

 まずは元あった場所に近い賑やかな周防町の通り。ここはミナミの中でも新しい店が犇めき合うところで、洒落たカフェやレストランなどが立ち並ぶ。岡本さんにとっては普通、僕にとってはやや早歩きで堺筋まで約五分。この辺りから突然おっさんの飲み屋街に様変わりする。テレビ映画「ミナミの帝王』のロケにもよく使われるエリアだ。

 ラウンジやスナックの小さな看板がびっちりと細長いビルに張り付いている。道を歩く人間もスーツ系か多国籍の色とりどりのネーちゃんばかり。そして、タクシーが縦列駐車しまくっている次の交差点を東へ曲がると、ここからが島之内の領域となる。

 横断歩道を渡ると、まるで別世界に来たかのように喧騒が消えた。二十四時間経営する居酒屋風の鄙びた食堂、ひっそりと佇む古民家、煤けたガラス戸の饅頭屋、木造平屋の八百屋など、前向きに表現すればノスタルジックな下町の風情である。

 岡本さんが言った。

「この辺りが江戸時代まで、いわゆる花街だったところらしいんです。今でもわずかですけど、裏路地には高級な料理屋みたいなのが残ってますよ」

 確かに七、八十メートル毎に細かく路地が入り込んでいて、その奥を覗けばちょっと品を感じる提灯や看板がぽつぽつと見える。

「大阪にこんなところがあったんですね」

「ただ、最近は韓国人街となりつつあるようです。ほら、あそこもここも、よく見れば看板やメニューがハングル語でしょ」

「ほんまや。焼肉屋、食堂、美容院、ビデオ屋、ぜ~んぶハングル」

「この辺を歩いている人は服装も原色系。言葉も違いますよ。どうやら二世じゃなくてニューカマー・コリアンのようですね」

 それにしても、韓国人はやっぱり美人が多い。ホステス風のネーちゃんはもちろん、美容院の前で堂々とタオルを干すおばちゃんまでが美人だ。目を丸くしながら三、四分ほども歩くと、いきなり電飾が激しく点滅し、いくつもの黄色い看板が掲げられたとあるスーパーが見えた。

「河村さん、今度の『かしわぎ』の目印はこれ、スーパー玉出。大阪南部に多く見られるスーパーで二十四時間やってます。何もかもが破格でお客の数も半端じゃない。ここらへんだとやっぱり韓国人客が多いんでしょうね。島之内の大きなシンボルです」

「なんじゃぁこらぁ~。パチンコ屋顔負けの派手な店構え」

「で、柏木さんは、この角を左へ曲がったすぐのところにあるんです。ええっとここが駐車場でしょ、それで花屋があって綺麗なマンションがあって、その隣、あ、あったあった」

 二十メートルほど前方に阪神高速道路の高架、店の正面は銭湯ではなく、今度はコインランドリーだ。そして両隣三軒は普通の民家であった。そんな風情の中で、以前と同じ『麺酒房 かしわぎ』の白い提灯が揺れている。入口も以前同様、間口が幅二メートルほどしかなく引き戸タイプである。

 ワクワク気分で戸を開けた。

 時刻は八時過ぎ。店は以前と似たような客層で賑わいを見せていた。蕎麦屋だろうがどこだろうが、きっつい香水の匂いをまき散らすお水のネーちゃん、そして顔を赤らめながら、大きな声で笑うおっさんも健在だ。

「おめでとうございます」

 そういって僕と岡本さんは、買っておいた花を手渡した。

 じっくりと店の中を見渡すと、今度の店は二階席がなく、奥に四人が何とか座れるこじんまりとしたテーブルが三つ置かれた小上がり席がある。カウンターは八席。照明はぼんやりとしたオレンジ色、BGMは以前と同じスィングジャズのチャンネルだ。

 僕たちは空いていたカウンターの真ん中辺りに腰掛け、厨房を覗き込む。

「やっぱり、釜やシンクの位置は心斎橋とまったく同じなんですね」

「ふぅん、そぅだねぇ。何か気づいたことあれば教えてくんない」

 柏木さんはいつもどおりのスローモーションだが、顔はきらきらと輝いていた。

「今回は調理台が少し広くなってますんで、コンロとコンロの間隔をもう少し広げてもいいのとちゃいますか。それと、あ、そうそう、食器がむき出しになってますんで、洗ったら手ぬぐいでもかぶせておいたほうがいいと思います」

 入口横の延し台付近も以前より広く感じられる。

「そう、今回はさ、入口んところをちょっと広く取ったんだよね。まぁ、石臼でも置けたらいいなって、思ってんだけどさ」

 戸のすぐ横に冷蔵庫、そして一歩カウンターに近づいたところに六、七十センチ×一メートルほどのスペースがある。カウンターを境にその隣が蕎麦を仕込む延し台である。

「でもねぇ、丸抜きを保管する場所がないんだよねぇ。そこんとこもうちょっと考えなきゃなんない」

 柏木さんは苦笑いして、計量カップに手をやった。

 いろいろ話に花が咲いて、僕たちがようやくおでんと蕎麦にありつけたのは、客も減りだした九時頃のことであった。久しぶりに柏木さんの二八蕎麦を食す。瑞々しくて甘い風味に富んでいた。

 さらに鴨ざる田舎蕎麦バージョンも追加した。これは『かしわぎ』イチオシの品である。胡麻油で炒めた白ネギに、レア焼きの鴨肉を五切れと柚子の皮を五ミリ加える。そして関東の濃厚辛口醤油と太い削り節でとった元の汁に、昆布と花鰹でとった薄っすらとしたダシを合わせたものを加えて少しだけ煮ておく。鴨の濃厚なうま味、ネギと柚子が織りなすハーブのハーモニー、蕎麦のゴツゴツ感、そして後抜けのいい辛口醤油感がたまらない。

「あぁ、食った食った食ったぁ。大満足だぁ」

 移転のお祝いもあってか、九時を過ぎても途切れることなく客が入ってくる。仕上がった僕と岡本さんは、これにて今日は終わりとした。

 店を出て賑やかな心斎橋に向かってゆっくりと歩く。

「柏木さん、よかったですね。あの様子だと、ほんまに死ぬまで大阪で蕎麦屋をやる気ですよ。これからもずっと、あの喉の渇く蕎麦が食えるわけっすね」

「めでたいことです。郊外に行ってれば、きっとあれだけの客はこないだろうしね。やっぱりあの人はミナミが合ってるんですよ」

 僕たちはスーパー玉出の横の自動販売機で、真冬というのに冷たいお茶を購入。そして二人して飲みながら堺筋方面へと歩く。

「ところで河村さんはその後いかがですか。お店は忙しいですか」

「いやいや、暇です。最近は雑誌の取材とか来てくれて、徐々に知名度はあがっているようですけど。それでもとてもやっていけるような状況ではないです。みんな面白がってくれるけど商売としてはまったく別もんです」

「商売って難しいですね。柏木さんでもあんなに流行っていると思っていたのに、家賃が払えなかったわけですし」

「ほんまですね。柏木さんの場合は高齢というのもあったんやと思います。飲食業は想像以上にハードですから。いくら夜だけの営業と言うても深夜一時ころまででしょ。しょっちゅう臨時休業したり、連日自分が真っ先に酒飲んでたりしても、基本は週一の休みやし。細かい肴も多いから仕込みはなかなか大変やと思いますわ」

「なるほどね。魅力的な店ほど続けるのは難しいもんですね。個人経営は特に。柏木さん、ぜひ骨を埋めるつもりでいつまでも続けてもらいたいです。

二〇〇〇年を境にさらに新興組の手打ち蕎麦屋が増え続けていますよ。まぁ最近は見様見真似の、単に石臼を回しているだけの店が増えてきてるってみなさんはおっしゃってますけど」

「時代を切り開く者、それに乗っかる者、中には自分が開拓者だと言わんばかりに巧みにパクる者とか、色々出てきますよね。ま、なんであれ、僕ら客にとってはおいしい蕎麦屋が増えていくことは嬉しいもんですけど」

「本当ですね。あ、河村さん今日はどうされるんですか。もう松阪行きの電車ないんじゃないですかね」

「ええ、今日は日本橋のカプセルにでも泊まって早朝に帰ります」

「あ、それってまさかエム・ザ・ヘンってところじゃないですか」

「あ、そうです、ビルの上に大浴場があるやつです。柏木さんに教えてもらったんですよ」

「あそこね、同性愛者が多いらしくて。気をつけられた方がいいですよ、特に大浴場では目を合わせない方がいいかも」

「え、うそでしょ。ちょっと待ってくださいっ」

「それじゃまた」

第十五話 消えた岡本さん


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