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蕎麦変人おかもとさん #6

第六話 我らがホーム、ミナミの『かしわぎ』

( 第五話 京都手打ち蕎麦ブームの立役者『味禪』

 一九九六年、夏。

 大阪ミナミのど真ん中、東心斎橋の『かしわぎ』へ行く。

 こちらは一九九五年一月の開業だ。店主の名は柏木秀夫さん(当時六二歳。二〇〇四年七月二〇日逝去)。顔や形は俳優の伊東四朗によく似ている。八代続く江戸っ子の長男で、元は東京の有名雑誌社に勤務。関西支社ができる際に支社長として大阪に赴任するも、しばらくして退職し、突如蕎麦屋を開業してしまったという蕎麦変人界のカリスマである。

 京都のみならず大阪にも蕎麦の老舗や三たてのおいしい手打ち蕎麦屋が何軒か存在していたが、京都と明らかに違うのは何事にも「細かいことはまぁええやん」という良くも悪くも緩さがあることだ。全国の蕎麦好きの間で、おそらく有名であろう「砂場発祥伝説」についても、少なくとも当時の大阪人は誰も知らないし興味もない。その話を大阪の情報誌、雑誌の編集者に伝えても「へぇ、そうやったんや」で終わってしまう。大阪という街は伝統やしきたりよりも、自由奔放を好む傾向が強いのは昔からの事実であろう。

 そんな大阪の中で、ひと際自由を謳歌しているように見えたのが柏木さんである。他店にはない超ワイルドな得意技がいくつもある。

 店は夕方六時から夜のみの営業であったが、二日に一回は客が来店する前から自分が先に酒を飲んでしまうこと。酔う酔わずに関係なく、客の注文三品のうち一品は忘れること。大きな眼鏡を蕎麦粉か湯気で曇らせていること。釜の湯は三回に二回吹きこぼして「あ、いけね」と言って蓋を取ること。おまけに、やめたはずのタバコをすぐに吸ってしまうこと。あまり言うとご本人の名誉を傷つけかねないのでこの辺でやめておく。ま、それほど柏木さんにとって大阪は開放的な街だったのだろうと思う。

 僕が最初に出会ったときは、元編集者だったことを知らなかった。岡本さんに誘われるうち、いつの間にか一人でも通うようになったのである。我々にとって『かしわぎ』はホームであり、柏木さんは親父のような存在だった。

 柏木さんは岡本さんとしょっちゅう蕎麦談義をしては楽しそうにしていた。

 この日は僕が記事を書いた日刊ゲンダイの話題で盛り上がる。岡本さんがどこかで購入したゲンダイを紙袋から取り出し、記事が出ている面を開いて柏木さんに手渡す。

「どうですか、この記事は河村が書きました。写真も彼です。僕が行きつけている銀閣寺近くの信州系蕎麦屋『實徳』から、亀岡の『拓朗亭』と太秦の『味禅』を紹介してもらったんです。昨年から四月に毘沙門堂でこの三軒の蕎麦屋による野だてそば会というイベントを開催していて、初回が二〇〇人、今年が三〇〇人以上を集客したと言います。みなさんその場で手打ちして湯がいて、冷たいざる蕎麦だけを出しているんです」

「むふふ、いいねぇ。関西にどんどん三たての蕎麦屋が増えてんだね。個性の違う三軒の食べ比べか。京都で蕎麦といえば、温かいニシン蕎麦ていう感じだもんね。そこに、この冷たい蕎麦でしょ。いやぁなかなか意外で斬新だよ」

 柏木さんの愛用の酒器はぼこぼこに歪んだアルミ製の計量カップ。これをカウンターの裏側のどこかに忍ばせつつ、ちびちびとやりもって話すのである。

「そうなんですよ。三軒とも京都というのがポイントです。京都って伝統を大事にする一方で、それを打ち破るような、新しいものを創り上げようとする開拓意欲も強いんですよね。京都には老舗蕎麦屋も多くありますけど、にしん蕎麦など基本的に熱い種ものが主役なんです。そんなところに冷たいざる蕎麦オンリーで勝負というのは、とても革命的なことだと思います」

「よく考えてみりゃ味だって京都は甘くて薄味だもんね。そこに冷たいざるでもって江戸風の辛口の汁でしょ。言ってみりゃまるごと正反対だ。京都のカウンター現象だね、いやこりゃ面白いや」

『かしわぎ』のざる汁は、柏木さんが蕎麦を習った『一茶庵』仕込みの、関東風の辛口である。

「ええ、それがですね、同じ冷たいざる蕎麦ばかりと言ってもこれが実に個性的でして。『拓朗亭』は長野や福井の玄ソバを仕入れ、選別、磨き、脱皮の次元から徹底管理していて、自作臼で自家製粉し、きっちり十割の生粉打ち。鶯色というのでしょうか、鮮やかな薄緑色で香りもすごいんです。ただ、汁は思いっきり関西風で、シイタケの甘みと香りがよく利いてて柔らかな味です。『實徳』は信頼のおける長野の製粉所から国内産の粉を仕入れ、七三を基本として打ち、それを水を切らずに盛り付ける、ぼっち盛りというスタイル。汁は芳醇で濃い甘辛口。『味禅』は北海道や信州の丸抜き(外皮を剥いたもの)を仕入れこちらも自作臼の自家製粉、生粉打ちもされますが、つなぎ入りの喉越しのいい蕎麦も打たれてます。つなぎは時々に応じて〇~十%で打つのだとか。汁は今回の中で唯一の東京風の辛口です。ヒゲタ濃口醤油に本枯節をよく利かせたもので、そこに関西人が好むうま味も上手に配合されてます」

 僕の書いた記事は三店それぞれの簡単な違いをさっと述べただけ。この際、岡本さんを取材していった方が、よりたくさんお店を紹介することもできて詳しいことを伝えられるんじゃないかと思うくらい、岡本さんは蕎麦に精通していて記憶力もすこぶる高い。

「へぇ、どれも魅力的だね。全部食べてみたいや」

「それと今回取材対象ではないですが、府立植物園前にある『じん六』という店がありまして、こちらも玄ソバから仕入れて、独自の臼による製粉をされているのですが、驚くことに産地別に蕎麦を打ってらっしゃる。今年の一月、阪神淡路大震災の直後に開業されたとのことですが、それ以前から趣味で蕎麦を打っていて、たまたま近所の問屋さんで仕入れた原料がものすごくおいしかったそうで。でも問屋へ行くと、蕎麦は農産物だから毎回いいものが入るとは限らないというもんだから、自分で産地まで行っちゃったんですって。福井県の大野という農村だそうですよ。そんな風にして各地を探し回ってらっしゃるというからとんでもない方です。さらに汁の色なんですけど、蕎麦猪口の底が見えるほどの薄さでこれまた驚き。でも薄口醤油と鰹節のシンプルなもので、実はうまみ、塩味がかなり濃くて、こんな汁見たことがないです。伺うと、主役は蕎麦だから、それを邪魔しない汁をと思ったらこうなった、とおっしゃってました」

「へぇ、そりゃすごいや。みんな生粉打ちやっちゃうんだ。田舎風じゃなく丸抜きのほうだよね。つなぎを入れないとなかなかつながんないんだよ。すごいね」

 おっと、僕に内緒でいつの間に『じん六』に行ったというのか。岡本さんはいつもの濁ったほうじ茶をずずっと吸い込み、足を組み替えて話を続ける。

「『拓朗亭』も『じん六』も同じようなことをおっしゃるんですけど、どうやら製粉にポイントがあるようなんです。九〇とか一〇〇とかのメッシュをお使いのようで、その細かさは普通じゃない。そもそもそんな微粉を石臼で挽けるのかと。お二人とも電動工具のサンダーを使ってご自分で目を立ててしまうんです。相当大掛かりに研究されてます」

「なにそれ。うちは製粉所から仕入れちゃってるけど、いつか自家製粉をとは思ってるんだけどね。まだわかんないことが多すぎて、ふむ、なかなかね」

「あと、粒揃えや石抜きなども、お米用のものを改造して使うなど独自に工夫されていました。失敗を繰り返しなら、日々改良に余念がありません。『拓朗亭』の前川さんは八十年代半ばに住宅街で麺食堂として開業したとのことですが、しばらくしてから奥様の滋賀のご実家から石臼をもらってきて、手で挽きながら、徐々につなぎを減らしていき、ついに十割に行きついたそうです。また亀岡で畑を借りて自家栽培も試験的にやってあれこれ研究されているとか。信州黒姫の『ふじおか』に影響を受けたようで、店内にも、その写真が貼ってありました。今は電動石臼を入れて本格的な生粉打ち専門店となっています」

 柏木さんはエプロンの前についているポケットに手を差し込みごそごそ。岡本さんの濃い情報をメモでも取るのかと思いきや、くしゃくしゃのマイルドセブンを取り出し、タバコをくわえて火をつけた。

「ふぅぅぅ。みんなとことんだね」

「あれれ、柏木さん、タバコやめるって先だって言ってませんでしたっけ」

 柏木さんの視線がゆっくりと岡本さんに向けられる。

「むふぅ、のはずなんだけどね、やっぱりタバコって旨いやねぇ」

 何を言ってるんだこのオヤジは、と思い、僕は上を向いて大きく口を開けて笑い、岡本さんはずっこけた。

「でですね、前川さんが使ってらっしゃる石臼は"ひこべえ"と言われるもので、原形をとどめていないほどに改造しちゃってるんですよ。メッシュを巧みに使いわけて、ガク(ヘタ)と殻を取り分けるのだそうです。最終的には六〇メッシュで粉に仕上げるのだとか。店の裏に大きな貯蔵庫を設置していて、そこで大量に仕入れた玄ソバを湿度温度共に管理して保管されてました」

 岡本さんが僕の取材に同行したのは二回。その後、毎週のように『拓朗亭』『じん六』に顔を出し、さらにその合間に新しい蕎麦屋巡りもしていたというから蕎麦好きにもほどがある。

「それで、なぜ亀岡で店をしておられるのかとご主人に聞いてみたら、故郷であると同時に、わざわざ不便なところでどれだけやれるか試したかったとおっしゃってました。正直、店は本当に行きづらいところにあります。亀岡駅からバスで十五分ほど行った新興住宅街の中で。ご自分の家の一階を改造したものだそうです。ね、河村さん」

 グラスのビールをすべて口の中に入れて、僕は大きく頷く。柏木さんは僕のコップにビールをさらに注ぎ、一升瓶の蓋を開けて、ご自身の計量カップにも注ぐ。

「亀岡へはJRで行けるんだっけね」

「ええ、JR京都で一番北側のホーム嵯峨野線に乗り換えです。もし行かれるようならホームまでけっこう遠いのでご注意を。亀岡からのバスはけっこう本数が出ています」

「京都ってぇとどうしても先斗町や祇園とかをイメージしちゃうけど、実は郊外がかなり広いんだよね。亀岡は保津峡を境にして、もう丹波の入り口でしょ。確か、明智光秀の亀山城があるところで」

「あ、そうです、本能寺の変。むしろ京都と対峙しているというか。京都市内のお知り合いの方々から、市内に移転してこいって言われるらしいのですが、頑なまでに亀岡でこそ、と拒んでいるようです」

「前川さん、面白いね。そこで貯蔵も脱皮も、製粉からすべて自分一人でやっちゃうわけでしょ。うちはほら、『一茶庵』で習ったから二八が基本なんだよね。あと、せいぜいさらしな粉の白いやつと。自家製粉の生粉打ち食べてみたいもんだね。こりゃ行かなきゃ」

『かしわぎ』の看板メニューは「二八そば」。続いてさらしな粉の白い「白雪そば」、外皮を入れない甘皮込みの「田舎太打ちそば」、あとは好みの蕎麦を二種選べる「二色」が続く。

 柏木さんはとても男気があって、誰よりも熱い心の持ち主なのだが、しばしば拍子抜けすることもあった。それがタバコや計量カップに垣間見えるのである。まさに少し遊びのある二八蕎麦のような人だ。それが憎めないというか、格好よく思える部分でもあった。

 何食わぬ顔をしてタバコをくゆらせながら、ゆっくりと柏木さんがこちらに目をやる。

「むふふ、ところで河村君は最近はどうなの。雑誌は忙しい。息子さんはその後どう」

「ええ、なんとか仕事をもらえるようにはなってきましたが、なかなか儲かりません。子供はおかげさまで元気でやってます。生まれてからまだ二回しか抱いてませんけど、とにかく可愛いくて仕方がないです」

 僕はこの年の七月初旬に一児を授かっていた。妻の実家である三重県の病院で立ち合い分娩をしたのだった。

「ふふふ、これから楽しみだね」

 タバコの煙をゆっくりと吐きながら、じんわりと笑みを浮かべる柏木さん。この笑顔にいつも安心感を覚えていた。

「いつか、ここで息子と蕎麦をたぐうことができればいいなぁって。柏木さん、それまで元気でお願いします。それにしても蕎麦の企画はどの編集部も相手にしてくれなくて。何とか雑誌で特集なんかやれたらいいんですけど。ほんまに大阪はこう見えて保守的です。大阪で蕎麦企画をするとそんなに売上部数に影響するんですかね」

「うん、確かに。最初こっちに来たときはもっとみんな積極的かと思ったけど全然違った。ま、お金の勘定を考えればそうなってしまうのかな。でも、そろそろできるんじゃないかなぁ。今回の一件が何よりもの証拠だよ。まぁ、河村君は、そのままいろんな蕎麦屋へ顔出しときゃいいよ。岡もっちゃんもついてるし。読書するよっかはそっちのほうがはるかにいいや」

 店の有線放送からは、いつものスイングジャズが軽快に鳴り続けていた。

「第七話 大阪から新幹線に乗って京都まで黒姫を食べに行く」

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