論語 学而第一
今回は、論語です。東大の先生に安冨歩という大変ユニークな先生がいらっしゃいます。(詳細は調べてみてください)
安冨先生の著作「生きるための論語」についてそのさわりの部分をご紹介します。
子曰、 學而時習之、不亦說乎。
有朋自遠方來、不亦樂乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。
子曰く、学びて時にこれを習う、亦また説ばしからずや。
朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。
一般的な訳ではこんな感じでしょうか。
先生が言われた。学んでは適当なときに復習をする。
理解が深まり、いかにもうれしいことではないか。
友達が遠いところから訪ねてくる。
同じ道について語り合えるなんてなんとも楽しいことではないか。
人が分かってくれなくても気にかけない、
いかにも君子ではないか。
安冨先生の解釈では、「学」というのは学ぶだけではだめで、学んだことに拘束されてしまうといいます。だから、学んだことを無反省に、復習したり練習したりすることを孔子は薦めないと考えます。
「習」という言葉は後天的に身につくことを意味しているため、
學而時習之、不亦說乎 とは
と訳されています。学んだことが自分の中でしっかり理解でき、自由に駆使できるようになった時、人は喜びを感じます。その喜びを孔子は語っているのだと考えています。
なぜ朋が遠方から来るのか?
いきなり友達が遠方から訪ねてくる文はふつうに考えると唐突過ぎます。
安冨先生はこれを学習過程の比喩表現だと解釈します。
学びの本質というのは、いろいろ試行錯誤しているうちにある時点でハッと気づいて分かるようになります。それが「習」です。その学習過程を遠方から訪ねてくる(遠くからやって来る)と比喩的に捉えたということです。
人不知而不慍
三番目のは、学習の喜びのあとにつづく文ですから、次のような意味になります。
安冨先生は論語の冒頭はこのようにわかりやすく意味が通ったものであると解釈しています。
安冨先生訳
論語にもいろいろな解釈があります。