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賛否両論の音楽とインディーズバンドを取り巻く環境について。

SNSで意見が飛び交う事は良い事だとは思うが、けして踊らされてはいけないと常々考えている。

勿論、真っ当な意見を投げている人も居る。
それはそれとして、炎上の外郭にある感情論はモブキャラの戯言に過ぎないのだ。

以前から興味があったり、親交のある友人が中心に居る議論ならば、その渦に飛び込む意味はあると思うが、何のメリットがあって他人にどの立場から何の為に言っているのだろう?と言う下らない意見の方が圧倒的に多いのは事実だろう。

SNSはどれも基本無料だ。
そして、いつでもアカウントを消したり鍵をかけて逃げれる状態でとにかく自分の意見だけを投げる。
それで世界が変わるとまでは考えていないだろうが、行動の伴わない話に付き合う事に何の意味があるのだろうか?と思ってしまう事も多々ある。

自分自身では「意見」を言っているつもりなのだろうが、多くの場合は流れを生み出した本当の起点を見つけ出せずに、社会現象や他人の意見に対して脳内で勝手に自分の事と置き換えられた結果、脊髄反射的な返答をしているに過ぎない。つまり被害妄想である。

例外はあるだろうが、概ねその経済活動の輪の中に居ない人間の意見は「事例」に対して「私は」と言う立ち位置でしか意見は言えない。
隠された事情や真実は見えないからだ。
「私はその炎上を見てこう思う」それは意見では無く感想だろう。

かん‐そう【感想】
物事について、心に感じたことや思ったこと。
い‐けん【意見】
ある問題に対する主張・考え。心に思うところ。

意見と感想はまず明確に違うものなのだ。

そして、世の中と言うのは経済の流れでもある。
まず大きな流れがあって、それに紐づいた部分が必然的に動く。
また、風が吹けば桶屋が儲かると言う事もあり得るのだ。
つまり、多くの場合はお金で解決する事が多く、けして企業や団体、店舗は個人を攻撃対象にしたりしない。
万が一そのような事があった場合は訴訟ものである。

ただ、参加したくなる人の心理は解る。
流行りの話題を全てスルーのスタンスで利用していると何故か疎外感を感じたり、ファボもフォロワー数も増えなかったり、誰とも会話出来ず、承認欲求が満たせないのだが、そもそも“そんな人間関係”が人生において重要なのだろうか?

僕はそんな軽薄な繋がりよりも本心でリスペクトし合える人間関係を築き、疑問に感じる社会の仕組みなどは出来る限り協力して変えて行きたい。
たった1人には出来なくても100人集まれば出来る事もある。
だからこそ好き勝手に個人の意見を投げ合う憂さ晴らしのSNSでは無く、建設的な意見を実現させていくためのフォーラムが必要なのではないだろうか。
僕は音楽関係の明かる話題が少しでも増える事を心から望んでいる。

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