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【短編】出された舌の意味は――。【今日は何の日 : 0630 アインシュタイン記念日】


「おはよう、お兄ちゃん!」

 朝、洗面所で顔を洗って出てきた俺に、妹はいわゆる『あっかんべー』をしながら、朝の挨拶をしてきた。

「お、おはよう……?」

 戸惑う俺を尻目に、妹はそのまま笑顔でリビングへと去っていく。
 はて、どうして今俺は、妹に『あっかんべー』をされたのだろうか?
 それが分からずに、首をかしげてしまう。
 本来『あっかんべー』は侮辱の意味を表すボディランゲージのハズなので、俺は今、妹に侮辱されたということだが、心当たりがないのだ。
 昨日は、きちんとリクエストに応えてカレーを提供したし、その前にはパフェの要望にも答えた。ここ数日に限っていえば、妹の機嫌を損ねるようなことを、俺はしていないと思うのだ。

「……謎だ……」

 朝市で、難題にぶち当たった俺だった。

「おはよう、妹よ」
「ん? さっきも言ったじゃん? ……変なお兄ちゃん」

 さっそく、気を取り直してリビングでくつろぐ妹に挨拶をするが、見ての通りの反応を返されてしまう。
 見たところ、特段不機嫌そうにも見えない。
 朝の情報番組を見て、コメンテーターのよくわからないコメントに、「ふむふむ、なるほどねぇー」と、なにがわかったのかわからないようなことを言って頷いている。
 よくもまぁ、あんな上辺だけを取り繕ったような浅い言葉に同意できるものだ。とは思うものの、おそらくは、彼女の場合、『分かったような気になっているだけ』なので、特に言及しない方がいいだろう。
 これで、変に掘り下げて、せっかく持ち直しているかも知れない機嫌を損ねるのは、得策ではない。

「朝飯、何がいい?」
「うーん……なんでもいいよ」
「そか」

 そういえば、いろいろ調べたのだが、『今日は何の日』にちなんだご飯はなさそうだった。
 一応、毎月三十日は『そばの日』、『みその日』なので、和食という選択肢はあるが、『今日』六月三十日限定のものはなさそうだった。
 ので、一応今日の朝食はそばにすることにした。
 これだけ暑いのでちょうどいいだろう。
 朝食の準備を済ませ、妹に声をかけると、やはり嬉しそうに食卓について、

「おー! お蕎麦だ!! いいね!! ……冷や麦とか、お素麺の方がもっと涼しげで良かったけどね」

 と若干の不満は述べつつ、美味しそうにそばをすすっていた。

 結局、三枚のそばをおかわりして、その後元気いっぱいに部活に出かけて行った妹は、『あっかんべー』以降、基本的には終始ご機嫌だった。
 なので、『あっかんべー』の理由がわからないまま、俺は家の家事を黙々とこなしていくことになった。

 しかし、考えれば、考えるほどに謎だった。
 長年妹を見てきた俺の目からしても、今日の妹の様子と、朝のたった一発の『あっかんべー』が全く一致しないのだ。
 むしろ、いつもよりも気持ち上機嫌にすら見えた。
 それがどうして、あの『あっかんべー』に繋がるのか……皆目見当も付かないのである。

 それは、妹が部活から帰ってきても同じで、お昼ご飯用に作って渡したお弁当の容器を「すっごい美味しかった!」と、流しに出してくれたときも、それこそ満面の笑みだったし、その後、一緒に夕食の買出しに行ったときも、鼻歌交じりで、ずっとご機嫌だったのだ。

「お兄ちゃん! 手!!」
「お、おう……」
「……えへへぇ」

 帰り道、荷物を片手に、妹の隣を歩いていたら、空いた片手を繋げと言ってくるほどだったので、機嫌は本当に良いようだった。
 手をつないで、嬉しそうに可愛く笑うこいつが、不機嫌だとは思えない。
 だとすれば、もう、あの『あっかんべー』が幻覚だったとか、寝起きの俺の見間違いだったと考える方が正しい気さえしてきた。
 だが、あれは間違いなく現実だった……と、思う。

 そんな感じで、悩み続けた一日がもう終わろうと言う時間になって、俺は覚悟を決めた。
 見間違いだったと決めつけて忘れることもできたが、どうしても気になったので、掘り返すことで妹が怒ることも覚悟の上で、妹に直接聞いてみることにしたのだ。

「おーい、起きてるかぁ?」
「んー? なーにー? 開いてるよー」

 妹の部屋を訪れ、ノックをして呼びかけると、総返事が返ってきた。
 ゆっくりと部屋に入ると、妹は部屋着でくつろぎながら、ベットの上で漫画を読んでいた。

「なぁに? どうかしたん?」
「いや、どうしてもお前に聞きたいことがあってな……」

 やはり上機嫌の妹に、聞くかどうかを一瞬躊躇ったが、自分のモヤモヤを晴らすことを優先すると覚悟を決めて、俺は思い切って今朝のことを質問した。

「今朝の『あっかんべー』はなんだったんだ?」

 女性が、一度住んだことを掘り返されることを嫌うのは、十分承知している。
 でも、わからないままが嫌だった俺は、自分の気持ちを優先して、あえてそれをしているのだ。
 妹が、怒り狂うことも覚悟して、その反応を見ていると、妹はキョトンとして首をかしげた。

「……んー……? ああ! あれか!」

 そして、思い出したかのように両手を合わせて納得すると、楽しそうに笑いだした。

「………? ど、どうしたんだ?」
「だから、今日、お兄ちゃんはずっと難しい顔してたのか――って思っておかしくなっちゃって」

 目の端に浮かんだ涙を指で拭って、妹は息を整えてからいたずらっぽく微笑んで答えを教えてくれた。

「あれはね、今日が、『アインシュタイン記念日』だったからだよ!」

 言われて一瞬分からなかったが、少し考えて思い至った。

 アインシュタインと言えば、その写真が有名ではないか。
 カメラに向かって、舌を出すその様は、確かに『あっかんべー』に違いない。
 1905年の六月三十日。
 アインシュタインが、相対性理論の最初の論文『運動物体の電気力学について』と提出した日。
 それを記念して制定された『アインシュタイン記念日』だ。

 つまり、妹は、もはや我が家の流行りになっていた、『今日は何の日』にちなんで、『アインシュタイン=あっかんべースタイル』という連想から、俺に向かってあのボディランゲージを放ったのだった。
 少し考えれば、分かったことだったのに、すっかり思考の迷宮に囚われていた俺は、そこに至って、なんだか急におかしくなって、吹き出してしまった。

「あはは……、んだよ、そんなことかよ……あはははは」

 てっきり、妹になにかしてしまったと思っていた。
 すっかり、妹に翻弄されてしまって一日を終えたことに、なんだか悔しくなった俺は、ひとしきり笑ったあと、部屋を立ち去るときに、妹に向かって『あっかんべー』をする。

 すると、妹も、俺に向かって、

「あっかんべー!」

 楽しそうに笑いながら、侮辱の意味の欠片もないそのボディランゲージを、投げ返してくるのだった。


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