【短編】はじまりの記憶。【今日は何の日 : 0706 ピアノの日】
私の唯一の特技は、小さい頃から習っていたピアノだ。
私にできて、お兄ちゃんにできない唯一のもの。
楽譜くらいはお兄ちゃんでも読めるけれど、お兄ちゃんができるのは、片手でメロディをつま弾く程度で、両手を使った演奏までは至らない。
今でも、毎日学校で、お昼休みに練習している。
「本当に、毎日弾いてるね? ピアニストとか目指してるの?」
音楽教諭からも、以前そう言われたくらいだ。
もちろん、プロになるほどの腕前ではないし、その道で食べていこうとも思っていない。
けれど、単純に、私はピアノが好きなのだ。
でも、ふと疑問に思ったのは、私はどうして、ピアノが好きなのかということだった。
気がついたら、ピアノが好きだった。
もう、振り返って、一番古いピアノを弾いている記憶の時点で、私はピアノが好きだった。
だから、きっかけが分からないのだ。
「でも、気になるなぁ……」
私の悪い癖だ。
一度気になってしまうと、もうダメなのだ。
わからないと、多分今夜、間違いなく眠れなくなってしまう。
思い立って、携帯電話を取り出して、とある人物に通話を試みる。
この時間なら、奇跡的に通話できることが稀にあるのだ。
その可能性にかけてみた。……電話だけに?
「はーい、どしたの? こんな時間に珍しい。この時間あなたはまだ学校でしょう?」
「うん、昼休み」
奇跡的に繋がる稀な日が今日だったらしい。
「んで? お母さんの貴重な昼休みに、私の可愛い娘は何を話したいのかしら? 進路の話だったら、先月したわよね?」
言葉は若干冷たい感じだが、声に嬉しさが溢れている。
私はお母さんのこういうところが大好きだ。
「ううん、ごめん。もっともっとくだらない話」
「そうなの? で、なに?」
くだらないといっても、電話を切ったりしないのがお母さんだ。
お兄ちゃんなら、ここで普通に電話を切る。
まぁ、お兄ちゃんのそういうところも私は大好きなのだが……。
今は、お兄ちゃんは関係ない。
「あのね、私っていつから、なんで、ピアノが好きなのかなって思って」
「あぁ……なるほどねぇ……」
お母さんは思い返すような声で言った。
「確かに、あなたはもう、幼稚園の頃にはピアノ大好き少女だったもんね?」
「うん。その辺は記憶にあるんだけどね……それ以上前が思い出せなくて……」
「そりゃそうでしょうよ……私も自分の幼稚園以前の記憶なんてほとんどないもの……」
お母さんは、電話の向こうで、楽しそうに笑った。
「それで、お母さんはわかる?」
「もちろん。なんたって、あなたのお母さんですからね!」
「じゃあ――」
「お兄ちゃんに、こう聞きなさい。『私が初めてピアノを弾いたときのこと覚えてる?』って……それで、きっとわかるから」
私がお母さんに聞こうとする言葉を遮るように、お母さんは私にそう言った。
そして、それ以上、なんと聞いても、そうとしか答えてくれなかった。
「分かった? お兄ちゃんに聞くのよ? いいわね? ――あ、そうそう、今度の週末はって明日か明後日だけど、お母さんお家に帰れそうだから、お兄ちゃんにご馳走作るように言っておいてね!」
最後にそう言い残し、お母さんはそそくさと電話を切ってしまったのだった。
家に帰ると、珍しくお兄ちゃんの方が、私よりも先に家に帰ってきていた。
昨日の件もあったから、少し心配をかけちゃったのかも知れないと思ったが、単純に今日は職場が早く閉じる日だったらしい。
そして、夕食を食べながら、私はお母さんに言われた通りお兄ちゃんに聞いてみた。
「ねぇ、お兄ちゃん。『私が初めてピアノを弾いたときのこと覚えてる?』」
すると、お兄ちゃんは少し驚いた顔をしてから笑った。
「どうしたんだよ、薮から棒に……まぁ、覚えてるよ。正直、忘れられない……かな?」
そして、懐かしそうな目で、リビングにあるピアノを眺めて、こう続けた。
「あの日、父さんが帰ってこれなくなった日。母さんも、俺も、本当にショックで落ち込んでてさ……もう本当に、家が暗い空気に覆われてたんだよな……でも、お前はまだ、あの頃は小さかったから、父さんのこととかわかってなくて、でも、母さんとか俺が凹んでいるのには気がついてさ……それで、どうにか俺たちを元気づけようとしたんだと思うんだけど、おもむろにピアノを弾き始めたんだよ」
言われても全くピンと来ない。
でも、おぼろげに、私はあの日、お父さんが帰らぬ人となった日に、そんなことをした記憶はあった。
といっても、目を真っ赤にしたお母さんとお兄ちゃんの顔と、ピアノの前の椅子によじ登った程度の記憶だが……。
「『ねこふんじゃった』をエンドレスでさ……ちょこちょこ間違えながら、元気いっぱいに、一生懸命に、弾いて、歌って……一回弾くごとに、俺達に向かって『元気出た?』って笑ってさ……そんなお前が可愛くて、嬉しくて、俺も母さんも余計に泣けてきて……だからお前は、余計に一生懸命にピアノを弾いてさ……最終的には、母さんも俺も、泣きながら、でも、腹抱えて大爆笑して……そしたらお前が行ったんだよ。『ピアノ、楽しいね?』って」
ほとんど覚えていない。
でも、思い出した。いや、思い出せた。
私は、そのとき、お兄ちゃんに言われた言葉だけは、思い出せたのだ。
「思わず、俺は、お前のこと抱きしめて、『お前のピアノ、本当に最高だな。大好きだよ』って言って、泣いちゃってさ……そしたら、今度はお前がワンワン泣き出して……母さんもワンワンなんて……大騒ぎだったっけ……」
そうだ、言われたのだ。
初めて、お兄ちゃんに『大好きだ』って……、多分それが私の『ピアノ好き』の始まりだ。
それが分かって、私は顔が真っ赤になるのを自覚する。
まさか、ピアノまでがそうだったなんて……本当に、もう、私というやつは……。
「そうだ、久しぶりにさ、お前のピアノを聞かせてくれよ?」
「ふぇ!?」
「なんでもいいからさ。ご飯食べ終わったらでいいから……な?」
唐突に飛んできたリクエストに混乱しながら、でも、お兄ちゃんからそんな風に言ってもらえて、私は嬉しくなって、何を弾こうか考えた。
そして、
「だったら、今の私ができる、最強アレンジの『ねこふんじゃった』を披露してあげましょう!」
「いいね! 楽しみだ」
自分で上げたハードルにビビリながら、お兄ちゃんの美味しい夕飯をゆっくりと食べて時間を稼ぐのだった。
どんなアレンジ、しようかな?
そんなことを、考えながら……。
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