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『ボーはおそれている』|アリ・アスター

祖母が他界した。

その日、夏が容赦なく力を発揮し、青空はこれでもかと晴れ渡っていた。

北海道育ちの祖母のことだ、暑さに苛立ち、天を睨んでいるかと思ったが、遺された顔はとても穏やかだったことに安心した。

葬儀が終わり、親族が集まり、祖母の思い出話が始まるはずだったが、いつの間にか自分の近況説明に追われていた。言わずもがな。だが、話の隙間に、花のように祖母の思い出がぽつりぽつりと咲き始める。

未知の花畑。

母、叔母、従兄弟、妹。彼らの口から出てくる思い出の数々は、信じられないことに、まったく知らない祖母の姿を映し出していった。

その時、心の奥で、何かが軋む音が聞こえた。見えない扉が、ゆっくりと開いたのだ。

『ボーはおそれている』


悪夢に溺れそうな夜がある。汗で窒息しそうになり、自分の叫び声で目を覚ますこともある。そしてその恐怖を誰かに伝えようとしても、理解されない。鼠の前歯ほどの共感しか得られない苛立ちが残る。

わからせられないことがダメなのか、わからないことがダメなのか。

「わからない映画」を観ている時、この感覚がいつも蘇る。

『ボーはおそれている』を観ている時もそうだった。

いや、むしろあの映画自体が悪夢そのものだった。

人間は、自分が気づかぬまま無意識(非意識)に人生を操られている。つまり、自分が意識して、自分が理解できるものだけを手にしていても、たどり着けない人生(世界)があるということだ。

祖母の知らなかった多面を聞いた時、それまで理解できなかった、映画『ボーはおそれている』のあるシーンが急に鮮明に甦り、心臓に鳥肌が立った。

いつのまにか、アリ・アースター監督とホアキン・フェニックスが何かしらの「わからない鍵」をくれていたのだ。

その鍵で自分の中に閉ざされていた何かの扉を開いたのだ。そして、扉の向こうには新たな「知らない世界」が広がっていた。

その扉を開けるか否か。

それは結局、自分次第というわけだ。

わからないけど。


【予告編】


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谷口賢志


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