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光る猫、青い猫

人に誘われるのはありがたい。日々の澱を取り除き、憂さを晴らすには、楽しい予定を入れるのが一番だ。しかし、先々の予定を埋めても、当日の天気はわからない。私の期待をへし折り、あっさりと裏切る。
例えば。週末の予報は快晴。安心する。さらに数日後、快晴の予報は変わり、晴れのマークの後ろに灰色の雲が顔を覗かせるが、予報は晴れ。安心。当日、無情の雨天。泣く泣く予定をずらす。我々は、天気予報に一喜一憂する。
先日、友人と新宿御苑に行く予定を立てたが、まさにこれだった。挙句、当該の朝は冬の光が差し込み、友人に「晴れてんだけど?」と愚痴を伝える。すると、光を浴びる友人の愛猫の写真が届いた。猫も光る冬の朝だ。
フリーの休日は唐突に訪れた。無意味に過ごすのも癪なので、外に出る。すでに雲行きは怪しく、リスケは結果オーライと言い聞かせる。雨天に行くならば、館だ。美術館、映画館、博物館。東京オペラシティと迷ったが、世田谷文学館に向かう。道中、ラーメン二郎に寄った。人と会わない休日の特権だ。氷山と見紛う肉塊はてらてらと輝き、過度なにんにく、過度なカロリーを摂った。
曇天の南烏山を歩き、ROTH BART BARONの『月に吠える』を聴く。この日に聴くのは必然だ。世田谷文学館に辿り着き、自動ドア越しに受付を見やると、直立不動の女性が並び、現実感が乏しい。廃墟に取り残されたマネキンに見える。心中では謝りつつ、「月に吠えよ、萩原朔太郎展」のチケットを買った。
萩原朔太郎を知ったのは、母のメールがきっかけだった。当時は、コロナが猛威を奮い、無意味な遠出は許されず、外出は最低限の買い物のみ。実質的な軟禁を強いられた時期だ。ゆるやかな衰退とも、穏やかな自死とも言える日々に辟易だった。母に、気軽な旅行にも行けないねと伝えると、萩原朔太郎の『旅上』の一節が届いた。遠い国を想い、そこには行けない切なさが込み上げるが、気ままな旅情を詠う詩は、そのときの私にはぴったりだった。
会場は静かで、客はいなかった。時折、朗読の音声が降り注ぎ、孤独と寂しさが募る。朔太郎の詩を読みつつ、ふらふらと自由に見回った。詩を綴る文字は青く、か細く、ユーモラス。塩川いづみさんのイラストも愛らしい。
朔太郎は魅力的な人だ。音楽が好き、写真が好き。惹かれるのも当然に思える。名前の由来は「朔日」から。私は、創作のアカウントを作ったときに「晦(つごもり)」の文字を忍ばせた。これは、ひと月の最後の日を表す言葉で、私の誕生日を表す言葉とも言える。対極の日付だが、命名の由来には、一方的なシンパシーを抱いた。
展示物は、松本大洋の『東京の青猫』が素晴らしかった。詩と絵、都会の郷愁が重なる。『猫町』の舞台は下北沢だ。館内の椅子に座り、ZAZEN BOYSの『The Days of NEKOMACHI』を聴いた。萩原朔太郎と向井秀徳の邂逅を思い浮かべる。帰り際、ぽつぽつと客が増えた。客、客、客、客、客、客、客。どこを見ても客ばかりだとは言えなかったが、朔太郎の言葉を読み耽る人たちの姿を見届けた。

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