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エルデンリングで学ぶ大学生活のいろは



目次
【はじめに】
【1章 チュートリアルなんてものはない】
1) 不親切。でもそんなもん
2) 広大なマップを駆け抜ける
【2章 玉石混交なメッセージ】
1) 無知の限界
2) 適度な失敗とリカバリー
【幕間 褪せ人と大学生のあるある①】
「経験値稼ぎは必要。だが本懐ではない」
【3章 飽きないコツは武器にある】
1) 友達という名のやり込み要素
2) 武器が欲しい?なら走れ!どこまでも!
【4章 結局はボスを倒すゲーム】
1) 授業という名のボス戦
2) 攻略サイトは便利。だけども…
【幕間 褪せ人と大学生のあるある②】
「イベントはひっそりとそこにある」
【5章 ラスボスは第二形態まであるものだ】
1) 覚悟をしても現実は厳しい
2) ラスボスの妥協は一生の後悔
【終わりに】

【はじめに】

私はゲームが好きだ。FPSやRPG、アクションからパズルまで色々やってきている。ガチガチのゲーマーというわけではないが、手持ち無沙汰になればとりあえずPCかPS4をつけてゲームを物色するなんてことをする程度には好きだ。
そんな私が人生で取り敢えず一番ハマったのはエルデンリングだ。元々飽き性なので、周回プレイの何が楽しいのかわからなかったが、エルデンリングはちゃんと全エンディングを見た上で(主にプレイミスにより)、最終的に合計5周した。そんな私がエルデンリングで学んだ『大学生活の心得』のようなものについてお話ししたいと思う。

【1章 チュートリアルなんてものはない】


1. 不親切。だけどそんなもん

エルデンリングにはチュートリアルなんてものはない。あるのはせいぜい操作方法の説明くらいなもので、ゲームの進め方、各ステータスの見方上げ方、ダメージの伸ばし方、特殊なモーションの説明なんて当然ない。広大なマップに放り出され、わけもわからず喧嘩を売ってしまったやたらとゴツい金色の鎧を着た騎兵に倒されて初デスを迎えるだろう。『不親切と理不尽』こそフロムゲーの醍醐味だが、初見からすれば今作の広大なマップも相まってわからないことだらけだ。
しかしこれは大学生活でも同じだ。『大学生活』と聞いて授業を思い浮かべる気もしれないが、年取得上限を44単位と仮定して、1コマ2単位、週平均11授業となると考えた時、1日の睡眠時間を7時間としても実に102.5時間は開く計算になる。大学生活とは授業を受けている時間よりもそうではない時間が多いのだ。しかし大学のガイダンスで教えてくれるのは精々が施設の使い方と履修登録の方法だろう。無論、そこらへんが手厚い大学もあるかもしれないが、普遍化されたアドバイスのうち一体どれだけが自身に当てはまるだろうか?
そういう意味では大学生活は基本的に不親切にできている。知らないもの、考えてないものに非常という意味では社会も同じ様なものだが、お金を支払って身を置く環境にしてはいささか理不尽と不親切がすぎる気がする。しかしそんなもんなのだ。エルデンリング然り、大学生活然り、『理不尽で不親切』を早めに理解し、その上でうまくやっていけば、自然と楽しさが上回る。この『不親切』に慣れないと大学生活は厳しいかもしれない。
エルデンリングでも大学生活でも『不親切』は仕様なのだ。


2. 広大なマップを駆け抜ける

楽単という言葉が示すのは読んで字の如く『楽な単位』だ。前述した通り大学生活には時間がある。しかし何かをやろうと思えば102時間など全然足りなくなるのだからこの世は世知辛い。そんなやりたいことだらけの大学生にとって、リソースを割かなくて済む楽単は大切な存在だ。出席がないとか、レポート提出だけでいいとか、楽単と呼ばれる理由は多岐に渡るが、簡単な話大学生活をより色々試せる手段の一つであることは間違いない。
しかしこれは何もプラスだけではない。
エルデンリングにはトレントと呼ばれる騎乗要素がある。広大なマップを足で探索するのはハッキリ言って無茶だ。少々ネタバレになるが始まりの地から巨人山嶺まで行くのにどれだけ大変なのかプレイ済みの方々はよくわかると思う。そこで出てくるのが人より早く、高く、いろいろな場所に高速で行けるエルデンリングのお馬さんこと『トレント』だ。プレイヤーはこの馬にまたがりフィールドを駆け回るわけだが、言うなればこれは『楽をし時間を得る』要素であり、その点において楽単と同じと言えるのではなかろうか?
一見すると、敵を振り切れ、移動速度も上がるこの要素のどこに問題があるのだと思うかもしれない。だが速度を上げ、敵との対面を削るということはそれだけドロップの機会を失い、探索を怠るということに直結する。探索を怠ると取れる選択肢は減り、ボスに勝てなくなったり、最悪ゲームに飽きる。当然と言えば当然だ。やり込み要素を放棄してフィールドを駆け抜ければゲームの醍醐味は失われ、ただただフィールドを移動してボスと戦うゲームになるわけだから面白みが減るのは当たり前だろう。
これは大学生活でも同じだ。時間効率だけを求めたところで、大学生活の本懐は『授業』という名の探索とボス討伐だ。これについては後ほど深く言及するが、結局のところ楽単を撮り続けたところで何の実りもない。単なる作業に過ぎないゲームはいずれ満足感なく飽きてしまう。
ゲームにしろ大学生活にしろ大切なのはバランスだ。設計や仕様によるバランスではなく、プレイする側の『優先順位』と言う名のバランスを見極めなければ、早々に息切れするか、達成感も充実感もなく、座っているだけと何なら変わらない授業を淡々とこなすだけの日々を送ることになってしまうだろう。
洞窟はトレントではいけない。これを忘れてはならないのである。

2章 玉石混交なメッセージ


1. 無知の限界

エルデンリングは理不尽を楽しむゲームだ。見たことのない動きや第二形態はもちろん、わかっていても避けられない斬撃、いやらしい攻撃を頻発する乱数、毒に腐敗、即死の概念、ドレイン、なぜかいきなり乱入してくる2体目のボス、回復の時に限って即着の攻撃を仕掛けてくるAI、そしてパッチ。こういったエンタメとしての理不尽や、無知ゆえの学びの楽しさがある一方で、どうしてもゲームを断念したくなる無知も存在する。その代表格が『キャラビルド』だろう。何も知らずに使いたい武器に合わせて育成してたらダメージが出なくなるなんて話はフロムゲー初心者あるあるだ。極論どのステータスをあげればいいのかわかりにくいし、振り直しが簡単かと言われれば専用アイテムの所在はもっとわかりにくかったりする。ダメージが出ないとボスどころか雑魚にすら倒される始末。仕様についての理解がなければゲームの楽しさ以前の問題だろう。
これは大学生活でも同じだ。残念なことに大学の授業のこと成績に関しては『知っている』人間が誰よりも得をするシステムになっている。出題範囲や提出期限はもちろんのこと、過去問や教授の性格、進行度、果ては就職率まで。知っていることでか得をする点が多くある。無論無知を既知に変える喜びこそが学びの本懐である以上、授業内容に関する『無知』は意欲と努力でカバーできるが、それでも知っておいた方がいいことは多い。
これは実体験だが、大学の課題でやたらと難易度の高いものがあると思っていたら、他の受講生の多くが過去のレポートを参考に提出しており、高評価を取っていたなんてことがあった。これは自分にとって、意欲や努力以前に知っておけば自分も高評価をとれたと言うやるせなさがまさった体験になった。
しかしこのような理不尽や不親切は、存外簡単なアドバイスや交友関係一つで解決するものだったりするのもまた事実だ。
エルデンリングにもメッセージという機能があり、プレイヤー同士で自分のいた足跡やアドバイスなんかを残したりすることができる。実際私も『この先隠し扉があるぞ』と言うメッセージに何度助けられたことか…(同じくらい引っかけられているが)
大学生活ならば先輩や先生と仲良くなる、とまではいかなくてもいいが、何かしら情報を得る手段を一つ確立しておくだけで、生活におけるストレスの一端を排除できたりする。無知による限界は、先人たちの知恵一つで乗り越えられるのだ。


2. 『この先アイテムがあるぞ』は50%

人の数だけ体験がある以上、真似てはならない体験もある。特に金と時間の両方を揃えられる大学生において先輩からの『ギャンブル』のお誘いは断り難く、また成功体験は甘美なものだ。お金と快感を同時に得られるそれらは一度や二度の失敗では帰ってこれず、何か決定的なものを失った時初めてそのとことを実感するのだ。
成功体験が判断を安易にする例はエルデンリングにも存在する。世の中には優しいプレイヤーもいれば、意地悪なプレイヤーもいる。アイテムや隠し通路の場所を丁寧にメッセージに残したり、危険を伝えたりしてくれる優しいプレイヤーのメッセージに助けられたことは二度や三度ではない。
しかしそれ以上の数だけしてやられているのである。何もない崖から飛び降りたり、何もない壁を殴らされたり、そんな嘘に騙されては苦渋を舐めてきた。それでも飛び降りてしまうのは、壁を殴ってしまうのは、宝箱があったと言う成功体験があるからだ。
先輩に付き合わされてやったギャンブル、レポートの手抜き方、サボれる授業。一度や二度の成功体験が、50%以上で死ぬとわかる崖から飛び降りさせ、何もない壁を殴らせる。時には飛び込むことも大切だ。社会勉強の一つになるかもしれない。だがそれらは全て、二度目がないことが前提なのだ。
『この先アイテムがあるぞ』には十分疑ってかかるべきなのである。それが取り返しのつかないことなら尚更。

この先ジャンプが有効だ


【幕間 褪せ人と大学生のあるある①】
「経験値稼ぎは必要。だがは本懐ではない」


時に、エルデンリングでは勝てない敵に対して、レベルアップを行う場合がある。これを是とするかはプレイスタイルによるので議論はしないが、私はマルギットを倒すためにツリーガードを倒してレベルを上げたとだけいっておく。
そんなレベリングだが、大学生活にも当然存在する。それがバイトだ。経験値といってもバイトで得られる経験など高が知れている。バイトで得られる最も大きなものそれは金だ。世知辛いことに大学生は金が必要だ。どこかに行ったり、何かを食べたり、高校生なら妥協できた彼女とのディナーも、それまでの何倍も高い金を使うようになる。だがこれは何も悲しいことではない。金、それも自分で稼いで手に入れたものを使って手に入れた経験は大きな意味になる。普段の昼ごはん三食分の値段のパフェを買って後悔した経験、1人で日帰り旅行に行って得た経験、友達や恋人に誰かではなく自分の金で物を贈る経験。それらは人生を豊かにするだろう。故に大学生の経験値稼ぎには金が必要なのだ。つまりエルデンリングのルーンというわけだ。エルデンリングでも得たルーンを元にステータスを上げていく。その選択権は自分にあり、時に失敗し、そして自分の思い描くビルドを組み立てていく。
しかしそれはゲームの本懐ではない。どこまで行ってもボスを倒さなければ話は進まないし、次第に飽きる。レベル上げはモチベーションにはなるだろうが、極論ゲーム進行において意味はあれど必要はない。だってレベル1でもクリアできる人もいるのだから。大学は明確な『卒業』と言うラスボスがいる。どれだけ経験値を上げようとも、偏ったステータスと、乏しい実践経験では勝てない。
レベルが上がっていくのを見るのは楽しいだろう。しかし体力と持久力だけではダメージは出ないのだ。大学という物語をクリアしたいのなら、このゲームの本懐を忘れてはならない。

3章 飽きないコツは武器にある

1. 友達という名のやり込み要素

大学生活にはやり込み要素が多様にある。授業はもちろん、サークル、課外活動、バイト、プライベートに至るまで。むろんそれらの多くは『やりこむ』要素であって卒業と言うゲームクリアには直接関係のないものが多い。サークルをやらなくたって、バイトをしなくたって、卒業自体はできるだろう。しかし授業だけをやっていると言うのは、性に合わない人間が多いのも事実だ。発見や驚き、出会に別れ。そういったやりこむ要素の代名詞、それが人間関係だ。人や友達、恋人を武器や魔法に例えるのはいささか気が引けるが、ここでは目を瞑ってほしい。
エルデンリングには数多くの武器、魔法、そして祈祷がある。自分に合った攻撃手段をもとにビルドを組むのだが、これは大学における人間関係に非常に似ていると私は考えている。例えば神秘と技量を上げたいのなら、出血派生、筋力に特化したいなら脳筋といったように、サークル中心ならサークルの人間と、ゼミや研究ならゼミ室の先輩や同期。海外経験をしたいならホームステイやネイティブと、自分の環境に合わせた友人を作ることが大切なのだ。そして最も重要なのは『1人』ではいけないと言うことである。あえて言葉を選ばずにいうなら飽きるからだ。ずっと同じ人間にいると行動は単一化され、マンネリを起こす。それでもたった1人の友人という枷が、新たな行動や独立した動きの妨げになることは少なくない。その結果無為に時間と機会を浪費してしまうかもしれない。無論、飽きたら縁を切れ、なんて話ではない。しかしそこで選択肢が広がらないのも事実だ。故に大学では友達を作る必要がある。それが大学生活そのものを飽きさせないコツであり、最も簡単なやり込み要素だ。
合わないなと思ったら適度な距離感を保てばいい。それこそ使わない武器の強化は後回しにするように、自分の肌に合わないものにリソースを割く必要はない。それでも、最初から選択肢を萎めるのは結果的に苦しい思いをするだろう。
なぜならそれは、世に言う縛りプレイなのだから 

Soulシリーズの代表的な剣


2. 武器が欲しい?なら走れ!どこまでも!

エルデンリングでは武器を手に入れる方法は三つある。拾うか、買うか、敵を倒すかだ。つまり能動的に動かなければ武器は手に入らない。無論、ストーリーを進めていればそれなりに揃いはする。しかし全武器の数に比べたら些細な物だ。フィールドにあるストーリーとは関係ない部分をこなして初めて手に入る。そう言う仕様である以上、プレイヤーはより強く、自分に合った武器を求めてフィールドを駆け回るのだ。
さて大学生活における友人も同様だ。大学に行って、席につき、授業を受ける。そんな単調かつ無味乾燥のサイクルの中で友人を作るのは意外と大変だ。最初は一二回声をかけてくれる人間もいるだろうが、こちらにその気がなければ、固定のクラスがない大学では友人を作ることはまず不可能。故に機会を増やすためにサークルやゼミ、バイト先や課外活動に励む必要があるのだ。無論、手当たり次第ではよくない。前述した通り自分に合った環境と、その環境にあった友人でなければいずれはどちらかがその環境を出ていってしまう。言うなればお蔵武器だ。強化もせず、補正値もテキストも知らない。と言うかいつ手に入れたのかもわからない。そんな存在になってしまうのだ。きっとLINEの一番下の方に埋もれているのを見て『こんな奴いたな』となってしまうに決まっている。
大学で友達を作る。それは泥臭く、マップを駆け巡りながら武器を集めるのと同じだ。そして君はきっと噂という名の攻略サイトから聞きつけるんだ。
何周も同じ敵を狩ってでも手に入れたい『欲しい武器』ってやつを。

4章 結局はボスを倒すゲームってこと


1. 授業という名のボス戦

エルデンリングは結局、どこまで行ってもボスを倒すゲームだ。前述した武器集め、NPCのイベント、そういったものがあるが、本質は追憶ボスを倒し、エルデの王になることが目的なわけで、それをしない限りクリアにはならない。そしてこれは大学でいうところの授業を受けて卒業するということと同じだ。
友達が100人いて、教授と仲良くなっても、授業に出ず、単位を落としていてはクリアできない。無論授業に出るだけでもダメだ。日々の授業は言うなればフィールドボスとの対面だ。ローリング、パリィ、ガードのタイミングは、何の練習も無しでは厳しいものがある。しかし、ある程度の場数を踏めば、初見の攻撃でもなんとか切り抜けられたりする物だ。ほとんどのボスをスルーしたプレイヤーが、いざ強敵を前にジャスガやパリィを決められず無惨に『YOU DIED』を晒すように、授業を怠った人間が真面目に受けている人間よりも良い評価を得られないのは当然だ。仮に単位が取れればいいというスタイルだとしても、そういった気の緩みがいつか落単を招くのだ。真面目にやってるやつはいい成績を残すし、だらけたやつはいつまで経ってもCを取っていつか単位を落とす。それが大学という場所だ。
そしめ連敗というものは気力を削ぐ要因となる。次第にモチベは下がり、やる気すら削がれていく。そうすると現実から逃避し、大学外に場所を求める。サークル、バイト、しかし最初に行った通り、それは本懐ではない。バイトやサークルをやったところで大学というゲームはクリアできないのだ。満足感を得ようが、慰めを得ようが、快感を得ようが、ゲーム進捗度は一ミリだって変わりはしない。
授業に出て大学を卒業する。今高校生の人には当然の如く感じるかもしれないこのことが、実践できなくなるほどに誘惑と自由が与えられる場所なのだ。自由の責任はいつもすぐにツケが来るわけではない。気づいた時、取り返しが効かなくなったそのタイミングで、マリケスの黒き刃の如く飛んでくるのだ。


2.攻略サイトは便利。だけども…

   昨今のゲームには大抵、インターネットに『攻略サイト』なるものがある。アイテムの所在からストーリーのチャート、対人ビルド、NPCのイベントや、フラグの折れる条件、強化素材の必要数にボスのデータまで大抵のことが書いてある。エルデンリングという超広大なオープンワールドの攻略サイトは実に気合が入っており、それを見てわからないことは基本ない程度には完成されているのが現状である。かくいう私も、ステータスの振り直し素材である雫の幼生の場所がいつまで経っても覚えられるず、よくお世話になっている。さて、この攻略サイト、見れば1発で環境武器の場所と経験値の稼ぎ場、そして強化素材の取得方に、専用ビルドまでわかるわけだが、もしこれらを活用してストーリーを進めたらどうなるだろうか?そう、俗に言う作業化である。無論、開発しているのは天下のフロムソフトウェア。並大抵のレベルマージンなら覆すぐらいには理不尽な設定が盛り込まれているわけだが、とはいっても限界がある。
 これは大学でも同じことが言える。先輩や同期からもらった過去問や楽単を詰め込めば簡単だろう。しかしそれでは学生生活の本懐であるはずの学びが薄まるのだ。そしてその割を食うのが就活である。ラスボスの第1形態である就活は『自身が学んだこと』なるものを聞かれたりするわけだが、楽単とカンペで乗り切った奴の言葉と中身はいたく薄い。当然だ。本来得られない力で何も考えずに乗り越えてきているのだからそうなって当然なのだ。
エルデンリングでいうのなら、もし仮に、1周目の世界でレベル70でゴッドフレイと戦った人と、レベル150でゴッドフレイと戦った人の感想を聞き比べたら、前者の方が苦労を含めて熱い葛藤を語れるだろう。それと同じことだ。
苦労や努力は語れても、先輩の口添えは自分の経験としては語れない。適した頻度で攻略サイトを使用しなければ、感動は薄れてしまうかもしれない。そうして薄れた感動に、共感してくれる人間は、そんなにいないものなのである。


【幕間 褪せ人と大学生のあるある②】
イベントはひっそりとそこにある


  私はNPCイベントのフラグをへし折ることが多々ある。ついつい進みすぎてへし折ったり、ヴァレーさんに至っては初見から殺してしまった(なんか裏切りそうだったから…)。エルデンリングのNPCイベントはフラグが立っているか会話しないと分からない上に、気づいたらどっかに消えていることがままある。あの広大なマップのどこにいるのか見当もつかない上に、訳のわからないタイミングで出てくるからこっちとしてもまともに付き合ってやる気にもなれない気持ちなるのは私だけだろうか?
  しかし大学にも同じようなことが起きるのだ。学内で起きているイベントや、後から聞いたらとても面白そうな特別講義、食堂の限定メニュー、連絡をちゃんと確認せずにスルーした遊びの予定。後半はともかくとして、前半は年一回のものだったりすると、後から知っていてショックを受けたりする。学内掲示板に貼られていることを知らなかったり、そもそもその日は大学に行く予定がなかったりで、案外気づかなかったりするものだ。ちなみに私は七夕イベントに気づかずに大学に行って驚いたことがある。何はともあれ、フラグ管理をしっかりしないと、せっかく大学に通ってないとて体験できないことや、前々から興味はあったことへ触れる機会をへ無駄にしてしまう。エルデンリングでも大学でも、イベントのフラグには多少過敏なくらいがちょうどいいのかもしれない。

5章 ラスボスは第二形態まであるものだ


1. 覚悟をしろ。それでも現実は厳しい

エルデンリングのボスは第二形態や、二本目のHPバーを持つものがいる。そうでなくても攻撃モーションが変化したりするわけで、お約束とわかってはいても、カットインのムービーが入ると高揚感と『遊びは終わりだ』と言わんばかりの容赦のなさに身震いするのは、全フロムゲープレイヤーが首肯してくれるだろう。いかに初見プレイヤーといえど、そういった『第二形態』の噂や片鱗はゲームをプレイしていたら感じるもので、「第二形態があるんだろうな」と、ラスボスを前にするまでプレイしていれば覚悟くらいはするだろう。
これと同じ現象が大学でも起きる。就活と卒論だ。私の大学は卒業制作だったが、とにかく厳しい。ゼミの先生が厳しいのもあったが、何度も推敲を重ねながら、就職という大きな壁に脳を持っていかれる感覚は、まさに第二ラウンドを控えているボス戦だ。どちらかが片付いても楽にはなれない。敷いて違いがあるとすれば、エルデンリングは楽しいが、就活も卒論も楽しくないと言った点だろう。
別に卒論と就活が被るなんて覚悟していたことだ。特別学歴の高い学校ではなかったため、自身の能力と希望を叶えるためには必死になる必要があることだって理解していた。それでもやはり現実は厳しいものなのだ。マレニアに第二形態があると知っていたとしても、あのカットインに慣れることは一生ない気がする。いつまでも「あぁコイツと第二ラウンドするのか」となるのだろう。
覚悟する。という行為は驚きを封じ、冷静になる儀式だと私は考える。覚悟が現実を好転させることはないし、せいぜいが冷静な現状分析を可能にするくらいなものだ。それでもやっぱり、しないよりはマシなのだ。腹を括り、心の中で『よっしゃかかってこい!』と敵を見据える。それが今対峙する相手を見据え、理不尽の塊みたいな敵との連戦にも臨めるメンタルを作る。

絶望的な第二ラウンドを見据える覚悟が、大学とエルデンリングのラスボス戦には必要なのだ。

歴代最強と名高いマレニアさん


2. ラスボス戦の妥協は一生の後悔

私が1周目のラスボス戦で唯一後悔をしていることがある。ビルドを変えたことだ。当時使っていたビルドは筋力持久に全振りした脳筋ビルド。メインの武装は巨人砕き。しかしどうしても勝てなかった。ダガーやククリを投げまくったり、壺を使ったり、武器を変えてみたりしたが、決定的にPSが足りなかった。今考えればもう50デスくらい重ねれればモーションへの理解も高まり倒せたのかもしれないが、そこまで倒せなかったのはマリケス以来だったため、私はかなり精神的にもやられていた。そこで私はビルドを変えるという手段をとった。正直、脳筋でここまでやってきただけあってかなり抵抗はあったが、強化素材をかき集め、全く育ててこなかった杖と、相性のいい刀を強化、ステータスも振り直し、当時流行っていた『技魔ビルド』で挑む事にした。結果から言うと勝てた。それもたったの5回のうちに。そこで得たのは感動というよりも「技魔つえぇ…」というビルドへの賞賛だった。達成感はなかった。
結局最後の最後で妥協したのが問題だったのだと、今になって思う。
大学生活におけるラスボスは就活と卒論だ。どちらも大変だし、妥協できることではない。それでもどこか優先順位をつけ、割り切り、そして妥協してしまうのだろう。精神と肉体のキャパシティの問題である以上、仕方ないといえばそうなのだろうが、私はラスボスを妥協することだけはしないで欲しいと思う。大学然り、エルデンリング然り、ラスボス戦はこのゲームで自分が一体何をやってきたのかと言うことの証明である。それは哲学の証明であり、自身の掛けてきた時間、労力の証明でもある。
私はそれを捨ててしまった。育て上げた巨人砕きやグレートソードを捨て、知力のかけらも無い自身の哲学を積み込んだビルドを放棄して、ただただクリアに生き急いでしまった。卒論も就職も同じだと、私は考える。
自身が育て上げたその武器とステータスに自信を持って、戦いに臨んで欲しい。龍に挑むは騎士の誉ゆえ。

【終わりに】


エルデンリングでコンテニューする時はいつだって少し緊張する。やり残した事、次のビルドへの期待、そう言ったものを胸にボタンを押す瞬間がいつも緊張する。卒業するとき、大学に入学することへのあの高揚感に近いのかもしれない。だが大学生の卒業は違う。押すボタンはコンテニューでもなければニューゲームでもない。全く新しい新作タイトルだ。大学は制度上帰ろうと思えば、勉強さえすればいつだって帰れる。それでもあの時のようにはできないだろう。きっと懐かしさや、郷愁の念が勝り、新鮮さと言うものは感じれない。それこそが大人になる、社会人になると言うことであり、大学を出るときに押さなければならないボタンなのだと思う。だからこそ、コンテニューの押せない『大学生活』というゲームを後悔なくプレイして欲しい。その一助となることを切に願ってこの文章を締めさせていただきたい。
ご精読誠にありがとうございました。

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