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「子ども」と「道具」と「運動発達」

「この道具は使っていい道具ですかダメな道具ですか」という質問をよくもらう。例えば「食事のときにピンセット型の練習箸を使ってもいいですか」などの具体的なものから、「抱っこ紐ってどうですか」などの漠然とした疑問まで、「子ども」と「道具」をめぐる問いかけは尽きない。そういう質問を受けたときに考えていることが、意外と運動能力の本質と繋がっているような気がしたので文章にまとめてみたいと思う。

万人にとってパーフェクトな道具などない

まず大前提として、100人の人間が一つの道具を使って、全員にフィットする道具はない。世の中には100人が同様に使える道具というものが存在するが、それは100人がそれぞれ必要な程度道具に能力を合わせているのであって、道具が100人にフィットしているわけではない。

例えば、箸の太さや長さ、重さは、みんな当たり前のように使っているが、本来は人によって「ちょうどいい」はバラバラのはずだ。素晴らしい箸、に出会ったことのある人はわかると思うが、何に感動するかというと、あんなただの二本の棒なのに、ちょっと物理的な条件が違うだけで「まるで誂えたかのような」感覚を得られることだ。しかし、それが隣に座る人にも同じ感動かというと意外とそうでもない。特に、体格が違う人とは「ちょうどいい物理的条件」が違って当然だ。

子どもは日々変化している

先ほどの箸の例は、もちろん、子どもに対して道具を選ぶときにも通じる。そして、子どもについて考えると、輪をかけてさらに「ちょうどいい道具なんてない」。

子どもの箸を選ぶとしよう。先ほどの大人の『お誂えか箸』のように、何種類か使わせてみてその子が「使いやすい」を見つけたらそれはラッキーだ、が、残念ながら子どもは信じられないスピードで「子ども自身」が変化している。体重しかり、身長しかり、認知能力しかり、運動能力しかり。昨日の彼らは明日の彼らとは違う。大人の尺度で考えているとあっという間に置いていかれる。「この間まではあんなに使いやすそうにしてたのに!」

うちの子はこの道具は苦手だから、と言うときの「うちの子」の時間軸を見直してみると、苦手という言葉の了見の狭さに驚くことになると思う。大人の苦手と子どもたちの苦手は意味が違う。それは単に「まだその運動ができる段階に至っていない」だけであって、彼らの脳のニューロンのシナプスを侮ってはいけない。

運動能力の本質とは何か

一般の人たちが考える運動能力は、運動を専門に教えたり指導したりするわたしたちの考える運動能力とは大きく違っている(と感じることが多い)。一般に、運動能力が高い、とは、スキルが高いことを意味することが多いからだ。

ずっと箸の話できているので箸の話で言えば、一般の人は「箸の使い方がうまい」ことを運動能力の高さとして捉えている。(箸を使う動作は素晴らしい巧緻動作であり運動だ。)一方で、運動を専門に学んできた人間からすれば、「どんな道具を使っても優雅にものを口に運べること」が運動能力の高さだ。道具が違っても、例えば森に落ちている二本の枝を使っても、まるで職人が仕立てた箸を使うかのように食べる動作を行える、ということが運動能力の高さなのだ。

つまり、冒頭の「食事のときにピンセット型の練習箸を使ってもいいですか」という質問の回答としては、「別にいいんじゃないですか」となる。それで食べられることも能力の一つだ。その動作自体は、本当の箸を使う動作とは全く違う。使ってみるとわかると思うが、本当に全く違う(笑)。しかし、運動能力の発達の視点で捉えたら、どんな道具でも上手に使えるようになる過程があり、そこに試行錯誤があり、成功があり、喜びがある以上、とても有意義なものだ。

「それは箸に見えて箸じゃないから使っても意味ないし箸が使えるようになる力を損ないます」というのは、運動能力=スキル、と捉えている思考なので注意が必要だ。ピンセット箸に必要な運動も、間違いなく箸を使う運動の要素とつながりがある。運動はそもそもが万から一つを選ぶことの繰り返しなので、無駄な運動などないし、ひとつの運動が他の運動を簡単に阻害したりしない。これはサッカーを上手くなるにはサッカーだけやっていればいいし他をやらないほうがいい、という思考にも繋がっていると思う。

運動の上達は意思とともにある

しつこく箸の話でいこうと思う。

子どもが箸を使いたい、という理由にはどのようなものがあるだろうか。大人が横で使っていて食べやすそうにしているから、とか、保育園の友達が使っているから、とか、具体的な理由があることもあれば、単にその二本の棒の動きに興味があるだけなのかもしれないが、運動能力は本人の意思があるときに向上する、ということを忘れてはいけない。

これは脳科学的な話だが、ヒトは(正確に言えばヒトだけではなく霊長類も)運動をするときにその運動の結果を自動的に脳で予測している。予測→実行→予測とのズレの感知→修正、というプロセスを毎回繰り返しているし、動作自体を練習し繰り返すときには最後の修正が次の予測に反映されて動作は洗練されていく。
そして、動作に意思が伴うときにはヒトの認知の領域や正確性が増す。

無理やり箸を手に持たされて文字通り手取り足取り箸の使い方を学ぶとき、そこには意思もなく、大人の手からの余計な触覚刺激が加わり、物を掴むという外的な目標ではなく自分の動きの内的な目標に目がいくようになり(この内と外の目標に関しては過去投稿「子どもの邪魔をしない教示とフィードバックについての一考察」を参照ください)、さらに言えば自分のタイミングで動作を内省する時間も与えられないので、正直言って非効率的だ。

自分の意思で目の前の箸を掴み、それがどんな形状の箸だとしても、それを使うこと自体を楽しむ、試行錯誤する、その結果継続して使用する、そういう一見周りくどい方法で子どもは運動能力を発達させていく。

道具には社会的な役割だってある

まだ箸の話をするが、子どもが「箸を使いたい」と言う理由が、例えば「保育園の子たちがみんな箸を使っているから」だったとしよう。箸はかなり高度な巧緻動作なので、使えるようになる年齢は本当に様々だ。だから7歳・8歳になって使えるようになったとしても特に問題ないのだが、中には手先の動作が人生の喜びなのか!?と思うくらいに手先の動作を繰り返して器用に箸を扱う3歳児だっている。

自分の子どもがまだまだ箸がうまく使えない状況だとして、保育園で隣の子が箸を使っているから自分も同じことがしたい!、と、どうしても箸を持って行きたいと子どもが訴えたら、親はどういう対応ができるだろうか。(ちなみに特に正解はないので気軽に考えて欲しい。)

1 普通の箸を持たせる
2 「うちの子」が使えるピンセット型箸を持たせる
3 家で箸の練習をする
4 まだ無理だからとスプーンとフォークを持たせる

こんなところだろうか。繰り返すが、答えはない。どうせ指の運動が様々な日常生活動作によってもう少し発達するまで、箸は上手に使えないのだ。ハサミ、鉛筆、包丁、針、そういったものを使うよりも箸はずっと複雑な動作だということは想像に難くないだろう。(繰り返すが、なんでも使えるようになることが運動能力の向上なのであり、箸を使えるということが運動能力の向上ではない。)

けれども、選択肢1〜3は少なくとも子どもの「箸を使いたい」という意思に沿っているように思う。そこをつぶしてはいけない(意欲をつぶしていいことはない)ので、4の選択肢はないだろうな・・と思う。

あ、もっといい回答5を思いついた。本人の気持ちもまだまだ気紛れなものなので、
5 毎日本人に何を持っていくか決めさせる
これにしようと思う。それなら時々本人がスプーンを選んだっていいと思う。お弁当の中身に合わせて選べるようになったらそれが一番いいかもしれない。お弁当の中身を見せて、道具を選ばせる。うん、それが一番人間らしい。

道具に使われない人間になろう

正直に言って、発達の観点から見て、絶対に使ってはいけない道具などない。どれも誰かが便利なように作られているから「道具」なのだ。それと同時に、絶対に使ったほうがいい道具もない。大切なのは「盲目的に道具を使わない」ことだ。発達の経過が全く同じ子どもはいないし(一卵性双生児でさえも)、発達は放っておいてもある程度様子が収束してくる(10歳で好んでオムツを使う子はいないし大人になっておしゃぶりを続ける子どももいない)。

子どもをよく見てみよう。いろんなものに興味を持ち、いろんな場所に移動し、いろんな道具を使って、少しずつ彼らの中に体験と経験が積み上がって、同時に育っていく身体の組織を余すことなく使おうとしている。

それと同時に、大人には大人の社会と生活があって、守るべきルールのために子どもが不快な道具だって使わなければならない場面だってある。

白か黒かで何かを語るものを見たら眉に唾をつけるのを忘れないようにしたい。そんな簡単な話あるかいな?と。

箸の話で言えば、じゃあ全部放っておけばいいのね!?というのも違う(白黒はっきりしすぎている)。目の前の子どもが、何をつかいやすそうにしているか、何を邪魔そうにしているか、それが解決可能な問題なのか、そういうことを考えよう、ということだ。箸をつかい始めたけど滑って上手く挟めないなら、滑り止めのある箸を選んであげる、箸で掴むのに皿の縁を使っているなら、平らな皿でないもので出してあげる、そのうち上手になってきたら皿も変えてみる、そんなふうに考えよう、ということだ。絶対にこぼして欲しくないお店でのシチュエーションでは、箸を使わせないという選択肢だってあるし、それは運動ではなく社会性の発達とともに可能になるだろう。

できないことではなくできることに目を向けてみると、意外と選択肢はたくさん見つかるものだ。教えるのではなく、放置するのではなく、よく見ることだ。「必要なら」「道具を選ぶ」のだ。


上手に箸を使う、という動作に必要な細かい運動要素については、また次の機会に書きたいと思う。